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フルシチョフ回想録を読む その1

東西冷戦を東側から見るとどうなるか。

その目的で選んでみたのが本書。
昭和47年(1972年)、タイム・ライフ・ブックス訳  リトル・ブラウン社出版(アメリカ)

フルシチョフは71年に死去したから、その直後にアメリカで出版されたのだろう。

64年に失脚し、年金生活に入っていたフルシチョフが回想したものだという。
原稿は息子を経由してアメリカに渡ったらしいが、当初は全文が揃ったわけでもなさそうだ。では、なぜ漏えいしたのかというと、国内でのスターリン主義の復権を阻止する意図が背景にあったのではないか、という。

企業や団体でもそうだが、行政組織でも内紛があって、敵対する少数派が外部(マスコミなど)に機密を暴露するということがよくある。この回顧録が漏洩したのも、そうした経過なのかもしれない。

ただし、当時のクレムリン現職の政治家たちへの直接的な非難は注意深く避けた形跡も伺われる。原本がそうなのか、あるいは表に出る前に「配慮」を施されたものか。

したがって、内容はフルシチョフ自身の主観にもとずく見方、意図的な脱漏、都合のよい省略や弁解などが多いと思われるし、そこに暴露した者の作為が潜入している可能性もあり得る。こうした制約を念頭に入れて読む必要があるようだ。
だとしても、全体的には当事者ならではの率直な感想が綴られており、相応のリアリティーがあるように感じた。

まず驚くのは、スターリンという独裁者の異常な性格と行動。
その忌まわしい「大粛清」によって、いったいどれだけの罪なき人々が「消された」か、正確な数はわからないという。

1956年2月、第20回党大会でのフルシチョフ報告(当時、秘密報告であった)によれば、1934年第17回党大会での中央委員並びにその候補総数139名のうち、実に70%にあたる97名が、その後に逮捕銃殺されたという。更に
「・・・・中央委員会ばかりでなく、党大会代表の1966名のうち、1108名、すなわち半数よりもはるかに多くが、反革命の犯罪で逮捕された・・・・彼らは革命前の非合法時代や内戦期に、戦線で党のために苦しみ闘った人たちである・・・・」(574項)
というのだから、凄まじい。

「革命」の美名に隠れた残酷無残さ。
ボルシェヴィキ革命の功労者たちの過半数を、根こそぎ粛清してしまったということだ。
そしてフルシチョフ自身も、その粛清の嵐を生き残った一人だった。
あるいは、加担の責任を免れない立場にあった、といえるかもしれない。

映画「カティンの森」で描かれたポーランド将校たちの大量虐殺(1940年)も、こうしたスターリン時代の凶行の延長線上の凶行と考えて差し支えないだろう。
顔色一つ変えずに、こんな蛮行を淡々と指示した残酷さには胸が悪くなる。

スターリン
スターリン

コミュニズムの立場に立てば、世界で最初に「プロレタリア革命」を実現したソ連邦は、それゆえにほとんど全世界を「階級闘争の敵」にまわしたといえるだろう。そうした世界観には、革命の理想とは真逆の、おぞましい暴力を正当化する悪魔性が潜んでいた。権力がモンスター化した原因は、人間存在の「深い闇」に根ざしているのではないかと思える。美しい理想を叫びながら最も残虐に人間を抹殺する。

ことに側近のベリヤという男の氷のような冷酷さも凄まじい。スターリン没後にすぐさま粛清された。相当に恨みをかっていたのだろう。
どこの企業でも団体でもいろんな内部抗争は必ずあるが、人命をいとも容易く「殺処分」するような暴力革命は、もはや21世紀では是認すべきではない。そもそも本末転倒だから。20世紀の深刻な教訓だと指摘されている。

共産党政権が「ブルジョア反動政権」「反革命勢力」から完全に包囲され、地方の反乱暴動や身内の裏切に常時晒された。スターリン自身の性格的な猜疑心や凶暴性もさることながら、政治的な孤立無援が尚更に「狂気の妄想」を増幅したのではないだろうか。凄惨なリンチ事件を起こした日本赤軍の蛮行やポル・ポトによる大粛清を思い出す。「文化大革命」についても、実態は十分明らかとはまだいえない。

スターリンは革命闘争の中で陰謀、裏切り、虐殺、投獄、流罪を潜り抜けてきた。その生涯は暗い猜疑に満ちた毎日だったのだろうと思う。
誰も信用できない、いつ自分自身が裏切られ抹殺されるかもわからない、という孤独と恐怖。これでは、まともな精神状態で過ごせなかったのだろう。

そもそも「階級闘争」という極端な権力志向へ偏った政治思想には、それ自身に重大な歪みがあるのだろうと思う。その「史観」は、食うか食われるかの凄惨な武力闘争を当然の前提としていた。差異を認めて調和しようという発想はそもそも念頭にない。「敵を殲滅」しなければ自分が滅びるだけ、という硬直的な二項対立。
帝政末期のロシアの深刻な社会事情が、こうした急進的な過激思想を産み、理想とは裏腹の人間の狂気と暴力を正当化したのだろうか。

こうしてモンスター化した「権力」が「革命」の美名で自己を粉飾した。
「革命の大義」というスローガンの下では、しばしばある種の倒錯現象が生じる。集団的な興奮のなかで「人間」よりも「組織の統制」が最優先されやすい。ここに手段と目的が転倒するのだと思う。
これは人間が作る「組織」に伴う傾向性なのだと思う。激情が深慮を抹殺する。声高な主戦論が賢明な慎重論を吹き飛ばしてしまうのだ。組織の同調圧力に抗するのはかなり難しい。
こうした現象は感情に偏りがちな人間自身の傾向性に原因があるのだろう。そこにリーダー自身の保身や功名心が巧妙に隠れている場合もある。いっとき流行した、あの「社会的諸関係の総体」などという人間観に限界があった。

それゆえ、社会主義国家の権力はしばしば国民へのむき出しの暴力装置と化した。残るのは、暗い「圧政」でしかない場合が多い。こうした政治文化は政権内でも凄惨な権力闘争を起こした。
そして権力を掌握した者が、「革命の大義」を掲げて、政敵を殺処分。「前衛」が「大衆」を指導するなどという、思い上がりの帰結だった。

しかも物神化した「革命党」やその権力者に都合の悪い真実は覆い隠された。更に、本来マルクス・レーニン主義とは無縁のはずの奇怪な「世襲」や「個人崇拝」が大衆的な狂熱のなかに登場し、正当化された。これはほとんど「カルト」に近い。
気がついた時には、誰もが「異常」であると知りながらそれと指摘できない恐怖の暗黒社会だったようだ。(562~617項)

今日に至るまで、どこにも訴えるすべのない痛恨の悲劇が、歴史の闇にたくさん埋もれているに違いない。

それにしても、一体、何のための「革命」だったのか。
ツアーリの桎梏から不幸な人民を解放するはずの理想を託した「革命」だったからこそ、悲劇の根が深い。まさに「革命は裏切られ」た。

レーニン
レーニン

たとえば、フルシチョフはこう記す

「・・・・スターリンのまわりにいたわれわれ全部が、かりそめの存在だった。彼がある程度信用している限り、生きかつ働き続けることを許された。だが、その信頼が消えうせた瞬間に、スターリンは相手を子細に吟味するようになり、やがて彼の不信の杯が満ちあふれてしまうのである。そのとき、その人物がもはや生者に属さない人間たちの仲間入りをする順番が巡ってくる。それこそが、彼のために働き、党の隊列に加わり、彼と手を携えて党のために闘ったすべての人々のおおよその運命だったのだ。それらの人々の多くは、スターリンに身心をささげつくした闘いの同志だったが、その生命を奪われた。・・・・」(307項)

最晩年のレーニンもスターリンの凶暴性を警戒し、不信感を漏らしていたようだが、その暴走をとめられなかった。その後の陰惨な権力闘争が大粛清の始まりだろう。レーニンとスターリンの関係にもぞッとするほどの相互不信があったのだろうか。

レーニンとスターリン
レーニンとスターリン

大戦後の比較的温和な島国に生まれ合わせた私のような住民からみて、この凄惨さは、想像の埒外だ。

ところで、そんなスターリンとの「共犯関係」も決して否定できないが、著者フルシチョフの印象はスターリン時代が陰鬱すぎるからか、意外な明るさをすら感じる。こちらの誤認だろうか。あくまで本書の範囲内だけでの印象なのだが。

フルシチョフ
左から、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ

感情を表に出さないで、陰に回って黒い陰謀を企む類の人間には見られない素朴さや、率直な人柄が感じられる。

演舌するフルシチョフ
演舌するフルシチョフ

組織の指導者としては、やはり明るい性格の方が安心して人々が集まりやすいのではないだろうか。

たとえば、アメリカの有名な大統領選挙の初テレビ討論。
病み上がりだったのだろうが、陰気な雰囲気のニクソンよりは、若くて颯爽とした明るさを感じるケネディのほうが得点を稼いだと思う。事前にニクソン有利と見られていた選挙戦を逆転させるきっかけになった。

あらゆる団体、組織、政治体制でも、こうした人間の「印象」は意外に大事な要素だと思う。

そして、本書を読んでみて、この人物が陰惨なスターリン時代を生き延びたしぶとさを持つとともに、「マルクス・レーニン主義」の素朴な信奉者であったことも、今更ながら意外な発見だった。スターリンよりは、はるかに「精神的に健康」だったのかもしれない。

フルシチョフ自身は一介の炭鉱夫から出発し、革命期の内戦時代を戦った、筋金入りの党員。
「・・・・若きソヴィエト共和国のもっとも危険な時代にまっさきにわが光輝ある軍隊(赤軍)で働いた・・・・」ことを誇りしている。これもまた、ボルシェヴィキ革命の一断面ではあるのだろう。

1925年初めて党大会の代議員に選ばれてモスクワを訪れたときには、市内で迷子になるような田舎者だった。
革命直後の混乱と苦闘の中、飢餓のために最初の妻を失うような悲惨も経験している。苦労して勝ち取ったボルシェビキ革命の世代であるだけに、回想記を書いている、この60年代後半のソ連の世相を嘆く。

「・・・(革命の草創期)当時、共産党員になるには、自らの犠牲に対して最終的なむくいを期待してはならなかった。今日では、どうもそうではない。むろん、いまでも共産党員の中にはまだ高潔な人物はいるが、同時に多くの無節操な人物や、おべっかつかいの役人や、いやしい立身出世主義者がいる。・・・」

そして党員証が社会での居心地のよさを得るための手段に化していると指摘している(17項)
「・・・このごろの抜け目のない連中は、我が国の社会に貢献するよりは、それからうまい汁を吸おうとして憂き身をやつしている・・・・」
と糾弾しているところが興味深い。革命精神の衰退を嘆く姿は、単なる老いの繰り言で片付けられないだろう。その後のソ連の停滞を思うと、実態をよく表現していると思う。

ソ連共産党だけではない。企業であれ、団体であれ創業期を終えたあとには、同じ現象がよく見られるところをみると、階級とかイデオロギーを超えた人間本来の性向に起因するのではないか、とさえ思う。
できあがった組織の中での遊泳術だけに長ける、小利口な連中を苦々しく見ているわけだ。これは人間社会で普遍性のある教訓だと思う。

多数の餓死者を出したウクライナの現場での苦闘、その直後のナチス・ドイツとの「大祖国戦争」で鍛えあげた。いわゆる「たたき上げ」の実践家だったのだろうと思う。血の通わない理論を弄ぶタイプではない。

中央からは離れていたことも幸いだった。首都モスクワで、陰謀をめぐらしながら権力闘争を勝ち抜いた謀略家というタイプではないのだろう。
レーニンとも、だいぶ個性が違うのではないだろうか。イデオロギーも、担う人による現れ方の違いは公平に評価されるべきではないだろうか。
クレムリン宮殿とソチの別荘に閉じ籠ったスターリンにとっては、こうした現場的な実践経験を豊富に持つ人材は重宝だったのではないだろう。スターリンの死後、第2世代のボルシェヴィキ党指導者としてクレムリンの中心に登った。もちろん、政敵も多かっただろう。

ところで東西冷戦時代の東側指導者には、どんな大義名分があったのだろうか。
たとえば、ベルリン封鎖(1948-9年)を巡って、フルシチョフはこんな楽観論を述べている。

「・・・ベルリンに国境管理(=壁)を設定したことは、市民の意識に非常に好ましい効果をもたらした。・・・・・・東ドイツの生活は秩序と規律を回復した・・・・勿論、いくつかの困難はあった・・・・・国境警備員はやむなく自分たちの自由になる手段を使って、国境の侵犯を阻止しなければならなかった・・・・」(462項)

「・・・私は、欠陥があることなど承知しているが、それは必要だし、一時的な欠陥に過ぎないと信じている・・・・もしドイツ民主共和国がいつの日か労働者階級の独裁によって利用される精神的・物質的可能性を充分に開発したならば、東西ベルリンを無制限に往来することが可能になるだろう。・・・・・・ドイツ民主共和国が精神的・政治的・物質的達成の陳列場となる・・・・というのが私の夢だった。・・・・」(463項)

残念ながら後世の歴史は、フルシチョフの夢想の通りにはまったくならなかった。
この単純な発展史観が手前勝手な自己正当化の根拠となり、ベルリン封鎖の悲劇を生んだのだ。

なかなか柔軟な面もある。独自路線を歩むユーゴスラビアのチトーとの論争では
「・・・・同志チトーとの経験で、私は社会主義の建設を進めるにはさまざまな道があることを教えられた。世界中のすべての国に当てはまる単一のお手本とか型とかいうものは存在しない。それが存在すると考えるのは、ただ愚かしいだけである。・・・・異なった諸党と諸国の相互作用と相関関係においては、我々は他者に対して寛容であるべきであり・・・・」(394項)
というのは額面通りに受け取って良いようだ。そう言わせるチトーも大した政治家だったのだろう。

ここには頑な教条主義との違いも見て取れる。やはり現場で生き抜いてきた知恵が生きているようにも思える。

その「社会主義」には一定のリアリティーがあり、革命後の新世代の若い活力もあって次第に国力も充実してきた。

作成者: webcitizen528

A Japanese man in Osaka

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