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ワクチン争奪戦と「蜘蛛の糸」(3)

 

 主人公の かん陀多は、血の池地獄から自分だけ逃れたい一心で、あとから続いてくる罪人たちに向かって罵声を浴びせている。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己《おれ》のものだぞ。お前たちは一体誰に尋《き》いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
と「喚《わめ》い」た。そのとたんに
「今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にかん陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断《き》れました。ですからかん陀多もたまりません。あっと云う間《ま》もなく風を切って、独楽《こま》のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。」
地獄に落下する かん陀多の姿が、まぶたに浮かぶようなみごとな描写だ。
それにしても、自らが「罪人」であることを亡失して、「こら 、罪人ども。 」とわめくところに、かん陀多の身勝手さがよく描かれている。


 こうして かん陀多は、か細い「救い」の可能性を失ったのだが、それは「自業自得」ということなのだろう。「自分さえ良ければ」という根性のダメさ加減を子供心に刻んだことは確かだ。
 「その心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまった」
確かに教訓は肝に銘じられた。

 しかし、この小説を初めて読んだ子供のころはうまく表現できなかった、ある種の「がっかり感」も残った。読み方にもよるかもしれないが、実はカンダタには助かって欲しかった。

 つまり、この物語には、主人公 かん陀多の境遇に同情し、できれば助かって欲しいと望んでしまう巧妙な仕掛けがあるのだと思う。
例えば、 かん陀多の性質については、
「このかん陀多と云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございます」
 と述べられているが、具体的な描写はない。「大泥棒」というレッテルだけ。
 逆に、 かん陀多が一匹の蜘蛛の命を救ってやったエピソードのほうは生き生きと具体的なので、 かん陀多の心の動きとともに印象に残る。
「ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛《くも》が一匹、路ばたを這《は》って行くのが見えました。そこでかん陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、『いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗《むやみ》にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。』と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。」
私も先年、ひとり熊野古道を歩いていたら、ムカデを足元に発見した。そして踏み殺そうかという衝動を思いとどまったことがある。そのとき、この物語を思いだした。そのムカデに罪はないな、と。
 どんな大悪人でも小さな「ホトケ心」はある。人間を善悪二元論だけで真っ二つに分別する思考法には無理があるのだろう。
 
 そして、この かん陀多の善行を思い出されたお釈迦様が手配したのは、まさに かん陀多が助けた蜘蛛の糸。しかも印象深い「銀色」。ただ、そもそも蜘蛛の糸だから脆弱に決まっている。 かん陀多を拾い上げることさえおぼつかない。それに、下・地獄と上・極楽の間は気も遠くなるような隔たりらしい。
「地獄と極楽との間は、何万里となくございます」
 お釈迦様の「救い」はとても遠くか細いのだ。なぜこんなに出し惜しみするのだろうか。それとも、 かん陀多の作った罪深さの報いと受け止めるべきなのだろうか。
 上に登る途中で一休みした かん陀多の眼に、同じ糸を下から追って登ってくる数限りない罪人たちが飛び込んできたときの周章狼狽ぶり
「かん陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとで、しばらくはただ、莫迦《ばか》のように大きな口を開《あ》いたまま、眼ばかり動かして居りました。」
「自分一人でさえ断《き》れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数《にんず》の重みに堪える事が出来ましょう。」
という具合。
 ここで かん陀多が何を喚《わめ》こうがどうしようが、初めからこの銀の糸はぷっつり切れるようになっていたのではないだろうか。
 著者は読者が かん陀多にたっぷり同情するよう仕向けておいて、すっぱりと かん陀多を捨て去る。お釈迦様の無慈悲さが恨めしくもならないだろうか。

 だからエゴを戒める教訓以上に、なにかやるせない「落胆」も心に残った。

 コロナ禍のなかでワクチンをめぐる争奪戦を見て、私が芥川の「蜘蛛の糸」を思い出したのは、人間世界の浅ましさがきっかけなのだが、一方でそれ以上にこの物語の「救い」のなさへの違和感も思い出したような気がする。それが仏教説話の形をとっているから猶更なのだ。

「かん陀多《かんだた》が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、かん陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。」
「悲しそうなお顔」という表現が、いかにも冷酷に感じられるのはこちらの受け取り方の誤りだろうか。
助かる見込みがほとんどない「蜘蛛の糸」を鼻先に垂らして一縷の望みを匂わせながら、
 「無慈悲な心が」原因で、「その心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまった」
というが、すでに地獄の責め苦にこれまで長くあえいできた かん陀多だったはず。それをたわむれのように(「ぶらぶら御歩きになり」)弄んだようななされ方に、本当に「仏の慈悲」はあるのだろうか。むしろ凄惨な仕打ちに感じられる。
 悪を犯すなと厳しく戒めるためだろうか。

しかし、私には以下のような締めくくり方はやはり非情の極みに思える。
「しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着《とんじゃく》致しません。」
 お釈迦様の心の動きを、美しい蓮の花に託しているところがあざとく感じられる。
文豪の作品を貶める僭越な意図はないが、なんだか釈然としないのだ。

それに、これは極楽だから、「お釈迦様」ではなくて本来は「阿弥陀」さんではないかとも思う。
いずれにせよ、あまりの「救い」のなさが心に負担となって残った。
更に根源的な疑問も残る。
罪を起こさない人間なんているのだろうか。

 私の読み間違いだろうか。
私はまた、別の仏教説話を思い出した。


※yutube 動く絵本「蜘蛛の糸」から