カテゴリー
読書 歴史

「方丈記」雑感(2)  

「末法」という時代認識

長明がしきりに強調する「無常観」の背景には、「末法」という時代認識があるらしい。では、その「末法」とは何か、尋ねてみた。

末木文美士著「日本仏教史」(新潮社版 平成15年9月刊)によると、

末法とは仏滅後(釈迦の死後)2000年以降のことで、釈迦の教えに効力がなくなる時代。「仏が亡くなって二千年を経て、仏の教えだけは残っても修行も悟りもなくなるという暗黒の時代」だという。

ただし、仏滅年代(釈迦の没年)については今も議論が確定していないようだし、末法到来の区切りについても他に異論があるようだが、長明の時代の日本で支配的な共通認識は永承七年(西暦1052年)到来説らしい。(同書132-3ページによると、これは中国で成立した説らしい)

その末法の様相は

「・・・・・天変地異が相次ぐなかで、人々を救うはずの寺僧の横暴は仏法の衰えをまざまざと示し、末法近しの思いをいっそう強く感じさせた。こうして永承七年(1052)ついに末法の第一年を迎える。仏が亡くなって二千年を経て、仏の教えだけは残っても修行も悟りもなくなるという暗黒の時代である・・・・時あたかも東北では前九年の役(1051-1062)の最中、時代は確実に移りつつあった。変動の時代の不安のなかで、末法を迎えた仏法になお人々は救いをもとめて集まる。末法のなかでも有効な仏教は何か、真実の救いとは何か。逃げ場のない状況のなかで突きつけられた問いの前で、真剣な仏教者の模索が続く、そんな時代であった」(129-130ページ)

「・・・・・永承七年末法到来説はおもに天台宗においていわれた。すでに日本天台宗の祖最澄が「像末」(像法の末)の意識をもっていたが、とくにそれが実践上顕著にあらわれてくるのは藤原道長と同時代の源信(10世紀中葉の天台宗僧侶 日本の浄土教の祖と称され、法然や親鸞に大きな影響を与えた)においてである。源信の『往生要集』の序は『それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり』の一句ではじまっており、像末とか末法とかいう言葉こそないが、その時代認識は明らかである。末法の凡夫にも『覚り易く行じ易い』浄土教はこののちたちまち不安な時代の人々の心をとらえることになる。」(同136ページ)

<参考>  像法(時代)
中国では、釈尊滅後、正法・像法・末法の三時を立てる。基(慈恩)の『大乗法苑義林章』では、教えそのものとそれを学び修行する者はあるが、覚りを開く者はおらず、仏法が形式的に行われる時代とされる。仏の説いた教えが形骸化した時代。また、釈尊以外の仏にも適用される。例えば威音王仏[いおんのうぶつ]の像法が法華経で説かれる。インドでは、像法と末法の厳密な区別はなかった。大集経[だいじっきょう]では第3の500年を「読誦多聞堅固[どくじゅたもんけんご]」(仏の経典を翻訳し聞持する者が多い時代)とし、第4の500年を「多造塔寺堅固[たぞうとうじけんご]」(寺院・堂塔の造立が盛んな時代)とする。
(聖教新聞 ホームページより)

「念仏」というと、法然や親鸞の専売特許かしらと考えがちだが、どうやら浄土教は天台法華宗から出発したのだった。だから長明の庵室には法華経とともに阿弥陀の絵が安置されていたのだとわかる。こと念仏については、法然や親鸞よりも長明のほうが先輩という順序になるのだろう。

そして末法闘諍を象徴する社会現象は「武士団」や「僧兵」の登場。社会秩序が乱れ、武力がことを決する、血なまぐさい風潮をいうのだろう。
それは、それまでの貴族政治の終焉を意味するのだと思う。

武家の棟梁、八幡太郎源義家墓(大阪府羽曳野市) 生没年(1039―1106)がちょうど1052年を挟む

方丈記にはないが、長明誕生の翌年保元元年(1156)には都を主戦場とする内戦(保元の乱)もあった。これは平安京始まって以来の本格的な市街戦だったようで『愚管抄』の著者、慈円はその著のなかで

「・・・・・・死罪ハトドマリテ久シク成タレド、カウホドノ事ナレバニヤ、行ハレニケルヲ、カタブク人モアリケルニヤ」(愚管抄五)
と書き残したが、これは薬子の乱(810年)以来行なわれなかった死刑が公式に復活した記録として注目されるという。

更に1159年長明4歳のときには平治の乱が勃発。
暴力を生業とする戦闘集団が、騒乱の時代のプレーヤーに登場し、いちだんと「末法」の感を深めたようだ。

保元の乱絵巻より

大規模自然災害の連続的な発生と都を舞台とする戦乱なかで、本来人を救うはずの比叡山や興福寺に「僧兵」が登場した。その暴力沙汰が尚さらに仏教の法滅感を加速したようだ。そもそも仏教僧が武装して刃傷沙汰に及ぶことじたいが自己矛盾なのだ。
皮肉を言えば平家物語に登場する武蔵坊弁慶などは、さしずめその典型とも言える。

治承4年(1181年1月)には平氏が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にしたが、もはや仏教への畏敬の念が薄くなっていたからだろう。「罰あたり」など恐れてはいない所業だ。

ここは単純な因果論で考えると末法の到来が世相の混乱をもたらしたのか、あるいは社会の混乱を「末法」の到来と感じたのか・・・・「卵が先か鶏が先か」みたいな堂々巡りに陥りそうだが、たぶん精神界(仏教)の堕落による人心の荒廃、社会秩序の混乱と自然災害が同時並行的に頻発したというのが実態なのだろう。今日はそれがグローバル化した。
平安仏教が宗教としての救済力を喪失した頃、ようやく社会体制に大混乱が生じ、これに呼応するかのように前代未聞の自然災害が人々を襲ったのだろう。

私には専門的な考証などできないが、もともと最澄や空海が中国から輸入した平安仏教はもっぱら貴族に受け入れられた宗派だったから、当時の一般民衆にどれだけ浸透していたのか、やや疑問に思う。むしろ、まず支配階級の「末法」という時代認識を背景に、浄土教のほうが日本社会により広く伝播していったのだろう。だからいつの間にか仏教といえば「念仏」をすぐに想起するような日本仏教イメージが定着したのだろうか。

ともあれ、こうした時代に鴨長明自身は生まれた。いわゆる末法到来から約100年後の、久寿二(1155)年と推定されている。

方丈記で長明が直接経験し、方丈記に書き残した五大厄災は
①1177年 安元の大火で都の三分の一が消失したという
②1180年 治承の辻風(都を直接襲った竜巻に近い)
③福原遷都の失敗(清盛の失政に近い)
④1181年 養和の大飢饉(都の貴族も大いに飢えたようだ)
⑤1185年 元暦の大地震(地響き、津波、液状化現象などの描写と思われる)

この間に「平家物語」で有名な源平の騒乱があって、1185年には壇ノ浦の合戦でさしも権勢を誇った平氏が全滅した。木曽義仲みたいな、京都人から見て「蛮族」のような武士団が都を一時的に武力占拠したこともあった。

特に、元暦の大地震の具体的な記述がこのたびの東日本大震災を連想させ、かつ2012年がたまたま「方丈記」執筆(建暦2 1212年)から800年にあたることもあって注目された。

「・・・・また元暦二年のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。或はくづれ、或はたふれた(ぬイ)る間、塵灰立ちあがりて盛なる煙のごとし。地のふるひ家のやぶるゝ音、いかづちにことならず。家の中に居れば忽にうちひしげなむとす。はしり出づればまた地われさく。羽なければ空へもあがるべからず。龍ならねば雲にのぼらむこと難し。おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。・・・・・・かくおびたゞしくふることはしばしにて止みにしかども、そのなごりしばしば絶えず。よのつねにおどろくほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやうまどほになりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、大かたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。むかし齊衡のころかとよ。おほなゐふりて、東大寺の佛のみぐし落ちなどして、いみじきことゞも侍りけれど、猶このたびにはしかずとぞ。すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。」

大阪に住んでいるので私も阪神大震災の強い揺れを経験した。、そればかりか、まさか自分が生きているうちに「1000年に1度」といわれる大震災が東北を襲い、未曾有の大津波が多くの人びとを飲み込むような悲劇を、この眼でリアルタイムに見るとは想像もしていなかった。また、深刻な原発事故は「人災」の要素も絡んでいることを指摘したい。
これは確かに世も末・・・「末法」の様相と言えるだろう。

その後も新潟、熊本、そして南アジアや南米でも地震や津波災害は絶えない。「地震・雷・火事・オヤジ」のうち、権威を失った「オヤジ」以外は今日大いに猛威を振るっている。

「おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。」との記述には、確かに同感を禁じ得ない。予告もなく、突然大地が激しく鳴動し、圧倒的な力で揺さぶる威力ほど人心を畏怖させるものはない。

平安末期の様相が仏滅後2000年に到来するという「末法」の様相に符合すると受け止められたのは頷けるが、しかしそれを言うなら、21世紀の今のほうがよほど地球規模での「末法」らしい現象に溢れているようにも思える。科学技術の長足の発展で皮肉なことに人災や戦災、テロ、核戦争など人間に起因する厄災もまた前代未聞、空前のスケールになった。一つ間違えれば人類の滅亡をすら招きかねないリアリティーがあるではないか。
9.11のテロ事件のときも、いきなりテレビに移されたあの光景を、はじめはテレビ映画かと錯覚したくらいだ。

最近の日本人は北朝鮮の核兵器と弾道ミサイルの脅しに怯えている。いつ尖閣列島が襲撃されるかもしれない。
北東アジアに破局が来るかもしれないという話が、日常的にもリアリティーを持って語られている。

しかし、地球環境問題ひとつ考えても、世を捨てて方丈庵に引き籠もり閑居の気味を楽しむというようなのんきな隠遁生活は、今ではあり得ない。

これだけグローバルに相互依存している私たちの時代では、「世捨て人」などになりようがない。むしろ地球上のどこにも安全な避難場所などない状況だ。
独りよがりに深刻ぶるつもりはないが、有り体に言って、もはや誰もこの地球規模の「末法的様相」からは逃れられない。なのに私たちはその日暮らしに埋没している。
それが正直な現実だと思う。

ところで、かねがね思うのだが、むしろ平安貴族の無力感、精神的な怠惰、そしてその無責任性が社会の衰弱に拍車をかけたと言えないだろうか。
社会の指導層が精神的に退廃し、責任感を失ったことがなおさら事態を悪化させたのだろう。

その文脈のなかに「方丈記」もあるのではないか、というのが私の見立てだ。

もちろん、門外漢が古典の文学的価値を貶める意図は毛頭ない。
ただ、現代の危機は平安末期の比ではないし、鴨長明のように呑気に傍観して済まされないだろう。
人類もろともに絶滅の危機にある、と言っても良いのだろう。
にもかかわらず、現実から「逃げ」る姿勢だけを重宝がるのはあまり生産的な態度ではないだろう。

「方丈記」を虚心坦懐に読むことは、物質文明にまみれた人間に、ある種の「自省」を促す契機にはなると思うが、やはり彼我の危機の大きな落差は無視できない。世界が「無常」であることは言うまでもないと思うけれど、せっかく生まれ合わせたのだから安易に悲観するだけではなくて、もっと積極的に生きる智慧を模索したほうが価値的ではないのだろうか。

方丈記では「無常感」と「逃避」が短絡的に繋がってしまっている。
それに、長明の時代ですら、実際には「逃避」などできなかった無名の人びとのほうが多かったはずだ。

もちろん余暇を「方丈記」の気分に充てるのは自由だが、厳しく言ってしまえば、読み方を誤つと「方丈記」が逃避を正当化する弁解・・・・つまりは世迷い言のたぐいになりかねない。

よりいっそう大規模で険しい局面に立ち至った21世紀の今を生きる指針には、残念ながらならないのだと言わざるを得ない。

まるで「ヒカリゴケ」のように怪しく光る「逃避」と「退廃」の魅力が「方丈記」にはあるのかもしれない。

でも、突き放して言えば、それは「つかの間のため息」に過ぎないだろう。どうも、そうしうたムードが「念仏」に漂う。

高校生の頃、「古文」という科目がどうしても馴染めなかったことを、今更自己弁護する意図はないが。