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熊野街道

 自宅から徒歩で10分もすると、旧街道沿いの道端でよく見かけるこの標識。

だいぶ以前から眼に止まっていて、気にはなっていたのだけれど、私はよく知らないままで来た。
ごくありふれた道筋の端に、いつごろからか点々とささやかに埋め込まれている。

そのむかし、平安貴族がこの道筋を歩いて遥か紀伊半島の山中までお参りに通ったとかいう巡礼の跡らしい。いずれ調べてみたいと思っていた。
最近になってやっと時間ができたので、まずは出処を訪ねてみた。

大阪市の中央区内では、道幅はせいぜい10メートル前後くらいだろうか。道筋をたどると、普通の路にはあまりない急な高低差や理由不明の折れ曲がりなどもあって、なにかいわくがありそうだ。
敢えて造作した気配が感じられる。

道の両側やそこから少し入ったところには、ところどころに風情のある古民家も残っている。路に面している外観だけ撮らせてもらった。
大阪市内のほぼ中央を南北に走る古道だが、昭和20年の「大阪大空襲」を奇跡的に免れた家屋からだろうか。
だとすると、貴重な建築物ではないだろうか。

道の傍らにある巨木は、「ご神体」として祀られているのだろう。空襲でも焼け残ったのだという。

「父と蟻の兵隊」で記したように、戦前まであった岐阜市内の祖父母の居宅は敗戦直前の大空襲で完全焼失してしまったと聞いている。神戸や名古屋にあった先祖の住まいも、それぞれの空襲で焼失したらしい。
岐阜の家は敗戦直後に細々と再建したものの、先祖の遺物は今日ほとんど何も伝わらない。これは大きな損失だと思う。

自らのアイデンティティーなどというと大袈裟だが、「家」の由来を知りたくなるのは誰しも自然な人情だと思う。これだけ見事に無くなってしまうと、戦後生まれの自分から見ても、あの悲惨な戦争が一族の来歴を「抹殺」してしまったのだと言えそうだ。

大阪大空襲の惨禍についても、これまで多く語り継がれているようだが、市内はやはりほとんど壊滅状態だったという。それだけに、市内中央の街道沿いに、こんな古民家風の建物がかろうじてわずかに残留していること自体、とても羨ましいくらいに思う。

大阪大空襲

この道筋を北上すると、どうやら淀川の支流である「大川」にまでたどり着く。そこにはのどかな水上バスの発着場「はちけんや」川の駅がある。


ここは、江戸時代まで賑わった「船着き場」だったのだという。


天満橋にある老舗昆布屋(永田屋昆布本店)さんの店先に「八軒屋船着き場の跡」という小さな石碑があって、親切にも「悠久の歴史を伝える八軒屋」(非売品)というパンフレットが無料で添えてあったので一部拝領して家に持ち帰りじっくり鑑賞した。

この手のひらサイズのパンフレットは全22ページほどだが、内容がとても充実していて楽しい。

八軒屋船着き場

安藤広重や葛飾北斎が描いたという江戸時代の大阪の美しい浮世絵などが掲載されている。最近増えた外国人向けもになるのだろうか。これはきっと喜ばれるに違いない。

その解説文によると、

「・・・・・このあたりは、上町台地の先端で、縄文時代は台地より東側は・・・・・内海で、<チヌの海>と呼ばれた大阪湾とは上町台地の先端でつながり、潮の流れが速く、ここから<浪速>の呼び名が生まれたといわれる。
・・・・・飛鳥、奈良時代には国際交易も盛ん」(1ページ)
であった。更に

「平安時代には<渡辺ノ津>と呼ばれ、紀州熊野詣での上陸地であった。」(同)
そうだ。

 今日のように列車、バス、自動車もない時代、都の貴族たちが京都・伏見あたりから船に乗って淀川を下り、ここから熊野街道を歩いてはるばる紀州半島の熊野三山を目指す巡礼の道だった。つまり江戸時代までは重要な交通の要衝だったことを知った。

そう言えば、西郷や大久保、そして岩倉具視などが徳川を軍事力で強引に圧倒しようとして発動した戦いが、なぜ「鳥羽伏見」から始まったのか、案外こうした地理的な事情もあったのだろう。
「錦の御旗」を担ぎ、ともかくいちど軍事力で勝利を内外に誇示しようというあざとい政治的な思惑があったからだろう。街道筋の民衆には迷惑な話だ。
 私はかねがね「明治維新」という美名には疑問を感じている。
民衆不在の歴史観には、あまり感心できないと思う。「公定」教科書の記述も、もういちど疑ってみたほうがいいのではないだろうか。「勝てば官軍」とはよく言ったものだ。

「京都から淀川を船で下って天王寺・住吉・荒野、あるいは遠く紀州熊野へおまいりする後続や公家たちは、みなこの渡辺から上陸して、上町台地を南へと道をとってゆきました。そうした関係から、やがてこの津がしらに渡辺王子(また窪津王子)がまつられることになりました。熊野九十九ヶ所の第一王子で、それから熊野街道(いまの阿倍野街道)を、日数をかさねて熊野までの旅を続けたものです。・・・・その第ニ王子が、今も安倍王子神社として残っています。・・・・
八軒家の名は、ここに(徳川時代)八軒の船宿や飛脚屋があったことから出たものだといわれています。・・・・・」(同7ページ)

この旧街道は今日、切れ切れながらも南下するにつれて大阪城(もちろん、平安時代にはなかった)の西側・・・・つまりは上町台地西側にそって南下し、やがて四天王寺西門への参道に接続し谷町筋に合流していったんは消える。そこからJR天王寺駅を更に南下すると、「あべのハルカス」あたりを東側面に見ながら住吉大社方面へ向かう阿倍野街道となり、その先は堺・泉州市内へと繋がる街道として確かに残っている。

四天王寺の鳥居

面白いことに、四天王寺西門には仏教寺院なのに大きな鳥居がある。ここにも熊野信仰の影響があるのだろうか。「神仏習合」も学んでみたいテーマの一つだ。

あべのハルカス

泉州からは紀伊山地を超えて和歌県に入りその西部を海岸沿いに南下、紀州田辺にまで伸びる街道なのだった。

いつか時間を見つけて、この最終目的地である「熊野本宮」に至る世界遺産「熊野古道」を自分の脚で踏破してみたいが、まだ実現はしていない。

淀川三十石船
現在の大川ー左岸が八軒屋浜