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風とともに去りぬ Gone with the wind (後編)

敗戦後の荒廃した故郷タラ。
わずか19歳の彼女に残った身内は、茫然自失の父と過酷な境遇を嘆くだけの妹達、それにアシュレーの帰りを待つ病弱なメラニーだった。
ここから事実上の家長として、皆を食べさせるための壮絶な苦闘の始まりだった。
何一つ苦労のないわがまま放題の娘時代からすれば、貧困の恐怖に当面することなど、思いもよらない逆境だった。

「タラ」という地名は、父が命名した先祖にとって伝説上の聖地(アイルランド)であった。苦悩のどん底で彼女は根源のアイデンティティーに目覚め、決然立ち上がったといえる。
アイルランド系移民であるオハラ家にとって、「タラ」は是が非でも再建しなければならない「心の聖地」だったのだ。
アイルランド系移民の子孫であるオハラ家にとって、「タラ」は是が非でも再建しなければならない「心の聖地」だったのだ。

ある日、たまたま家を略奪しにきた北軍の落伍者を逆に銃で撃ち殺し、その懐から取り出したわずかな金子と馬が再建の始まりになった。前編最後のシーンで神に誓ったとおりだ。
さらに、高額な税金の捻出のため、大嫌いなレット・バトラーをアトランタに訪ねて色仕掛けで金をせびろうとするが、逆に窮状を見抜かれ、屈辱を味わうことになる。
しかし、誇り高い彼女は少しもめげない。
つくづく強い女性だと感心する。

こんどはなんと、妹のフィアンセを横取りしてしまう。それは、その新しい夫の事業を乗っ取り、自ら経営するためだったのだから凄い。
もはや「古き良き時代の子女サザン・ベル」のすることではない。そのためには「裏切り者」とさげすまれてもいっこう構わずに、征服者の北軍とも平然と取引する。家族を養い、生きるためだ。

自ら経営する製材工場の労働者として、もっとも賃金の安い「牢人」を酷使する。「人道」なんて観念は、彼女とは無縁であるかのようだ。
夫フランクやアシュレーには南部紳士たるもの、滅びたとはいえ外聞を憚って真似のできないことだ。タラ再建のためには手段を選ばない「銭ゲバ」そのものだ。

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恥も外聞もなく、ひたすら一族の再興に没頭するスカーレットの果断なエネルギーは、ちまちました旧来の南部淑女の規範をあっさり打ち破る。

むしろ、それゆえにこそ、その心を支えているのは「古き良き南部の貴公子」の典型であるアシュレーへの一途な思慕なのだ。その思いを信仰に近い純粋感情にまで育て上げ、そのことによって彼女は南部淑女としての矜持、心のバランスをかろうじてとっているといえる。

だからスカーレットの心を見透かし、その本音を露悪的に暴露しながら言い寄るバトラーに強い拒否反応を示す、という心理反応になるのだろう。
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バトラーはスカーレットの欺瞞を揶揄しながら、かけがえのない「似たものどうし」の結びつきを求めている。

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しかしスカーレットの一途な片思いにも拘わらず、旧時代の申し子であるアシュレーは、もはや新しい時代の波を乗り切って生き抜く意欲も才覚も持ってはいない。

どう贔屓目に見てもアシュレーは「過去の人」南部貴族だ。同時代の南部にはそういう精神状態にあった人が多かったのだろうか。
スカーレットのほうが戦後の混乱期を自らの才覚で、はるかにたくましく生き抜いている。そのためには、他人の視線なんてまったく意に介さない。その猪突猛進ぶりには誰もかなわない。バトラーは彼女の活躍ぶりを眼を細めて見ている。

あるとき、スカーレットの危険を顧みない奔放な行動が、危うく黒人ホームレスたちの凶行に晒されそうになった。
これがきっかけで、南部伝統の騎士道精神に立つ夫フランクやアシュレーたちはKKK団の一員として「制裁」に走る。それは北軍治下においては極刑に値する犯罪であったが、発覚寸前にレットの機智でかろうじて危機を脱する。
しかし、まるでスカーレットに利用されるためにだけに結婚したかのようにお人よしの夫フランクは、そのトラブルの渦中で命を落してしまった。

白頭巾を被って黒人へのテロ活動を繰り返す「KKK団」が、いかなる背景で歴史に登場したのか、その一端が垣間見える。

二人目の夫の「非業の死」が本当は少しも悲しくないスカーレットを見て、レットはいよいよ自分の登場の時とみて強引な結婚を持ちかける。それで二人は結婚してしまうのだが、もちろん、喪に服する慎みも疎かな結婚なのだ。
二人はアトランタの市民はもちろん、親戚の不興をも大いに買うこととなる。

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かくてレットの財力も得たスカーレットは、富豪として見事に復活を遂げた。

しかし、やっとレットはスカーレットを手に入れたが、彼女の頑固一徹な性格には手を焼く。
二人の結婚生活は決して平坦には進まなかった。なぜなら彼女のアシュレーへの一途な思いは、レットの努力にもかかわらず、毫も変わらないからだ。
しかもスカーレットの不用意な行動で、アシュレーとの不倫の噂も町中に立つ。

面白くないレットは愛児・ボニーを溺愛する。若い頃のスカーレットに、性分がそっくりの女の子だったからだ。それは、いわばスカーレットの「代替物」でもあった。やがて、しばしば酒に溺れるようにもなる。

一方のスカーレットは、ありとあらゆる手練手管を使ってオハラ家を再興したものの、原因不明の悪夢にうなされ、レットとは深刻な諍いが続いていた。貧苦のどん底から這い上がるなかで、意識下に深刻な自己矛盾を孕み、そのトラウマに苦しんでいるようだ。罪の意識だろうか。

だから両人のかすがいともいうべき愛嬢ボニーが、不幸にも落馬して死んでしまうと、たちまち夫婦の絆破綻を招いた。

その頃、病弱なメラニーも無理な出産が原因で病臥に伏す。これにあわてふためいたスカーレットは初めて、自分にとっていかにメラニーがかけがいのない理解者であったかを思い知る。
しかしメラニーは夫アシュレーとスカーレットとの間の不倫の噂を攻めず、アシュレーと子供の後事をスカーレットに託した。そして、レットはスカーレットを真実愛しているのだと、最後の言葉を贈り絶命する。
メラニーは、最後までキリスト教的な「人格者」なのかもしれない。

ここにいたって初めてスカーレットは本当の自分に目覚め、アシュレーは自分が勝手に描いた「幻想」に過ぎなかったと気づいた。そして自らの過ちを認め、レットとの夫婦関係を回復しようと試みるが、すでにレットは疲れ切っていた・・・・。

45歳になっていたレットはある種「燃え尽き症候群」のような精神状態に陥っていて、もはやスカーレットへの情熱を喪失し、夫婦の絆を回復することはかなわなかった。こうして28歳のスカーレットは「富」以外のすべてを失ってしまった。

しかしスカーレットは、それでもなお再起を決意する。

“I’ll think of it all tomorrow, at Tara.  I can stand it then.
Tomorrow, I’ll think of some way to get him back.  After all,
tomorrow is another day.”
「すべてあしたタラに帰って考えよう。そうすればなんとか耐えられるだろう。そしてレットを取り戻すのだ。結局、明日はまた明日の陽が登るのだから。」と。

ここで尻切れトンボのように物語は終わるのだが、マーガレット・ミッチェルは続きを書かずに、惜しくも交通事故で死去してしまった。

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著者 マーガレット・ミッチェル
多くの読者に不満が残ったためか、最近になって別の作家が続編「スカーレット」を著し、これまたベストセラーになった。

華麗な起伏に富んだストーリー展開。南部への郷愁。主人公スカーレットとバトラーの強烈な性格上の葛藤が、リアルな魅力を発する作品なので、発表直後から一大ベストセラーになり、今も世界中のどこかでこの映画が必ず上映されているらしい。

人によってさまざまな感想や批評があろうとは思うが、以下は個人的な感想。

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メラニー

 正直言って、全編を通じてのメラニーの「聖女」ぶりには少々不自然さも感じる。レットにとってもスカーレットにとってもメラニーは真実の「貴婦人」であり理解者であった。
余りに人格者として描かれているので、やや非現実さを感じる場面もある。

ただ、そのふたりが、不即不離で運命をともにするところにストーリーの妙味があるのだろう。実際、彼女がいなければスカーレットの悪役振りは、ほとんど孤立無援に近い。作者はスカーレットの悪徳の「毒消し」をメラニーに託したのかもしれない。
病弱なメラニーが、信仰を深めて人格を磨いたということなのかもしれない。

しかしメラニーの死でもって、この三者の織り成す物語の構造が根本的に崩壊するのだから、これ以上は続けられないと考えたのかもしれない。メラニーがバランスの中心点だからだ。スカーレットの二人の妹たちなどほとんど存在感がないのだが、これも少し不自然かもしれない。

一方、初めて会ったときから、どこまでも執拗にスカーレットを追い求めるレット、とうとう結婚にまでこぎ着けたものの、どうしてもスカーレットの心をつかめず、やがて疲れ果ててしまう。
最後の場面になって、あっさりと諦めて去ってしまうというのも、やや唐突感がありはしないだろうか。彼はそれを「老い」のせいにしているが、それまでの非凡なタフネスさが一気に失せてしまうのでは、やや不燃焼感が残る。そんなに簡単に疲れるバトラーだったのだろうか。それとも、作者の息が切れたのだろうか。
静かで穏やかな余生を故郷に求めたことになっているのだが、梟雄レットの性格としては、何か中途半端な終わり方だと私には感じられる。物足りないのだ。

あるいは、スカーレットに拒絶されていたからこそ、獲物を追うハンターのような情熱が湧いたのだろうか。獲物が自分のものになったことで、燃え尽きてしまったというパラドックスなのだろうか。
やはり、メラニーの存在が、謎の中心点だったのかもしれない。神に一番近いポイントにメラニーがいてこそ、この回転劇はかろうじて成立していたのかもしれない。

一番わかりにくいのはスカーレットの心を支えた「南部の貴公子」アシュレーの性格。レットが指摘するように、男としては優柔不断で、魅力がない。旧家の床の間に置かれた由緒ある調度品みたいに、置き所が変わると、たんなる「無用の長物」でしかなくなるかのようだ。
最後の段になって、アシュレーへの思慕がスカーレットの独りよがりの「幻想」に過ぎなかったという発見の、あっけないほどの単純さは、総括の仕方としては、ちょっと薄っぺらい感じもする。
だとすると、「古き良き南部」を体現する以外に意味が与えられていない、なんとも気の毒な登場人物というほかない。

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アシュレー自身の内側からの発信力も、決定的に貧弱ではないだろうか。スカーレットからの視線でしか描けていないように見える。

しかし、スカーレットのキャラクターはよく描かれていると思う。こんな猛女もいるのだろうか、と感心するくらい性格は過激だと思うが、リアリティーはある。社会が大変動期だからだろう。乱世を生き抜くために、一途に思い込んで脇目も振らず突っ走る「突破者」みたいな女性。その向こう見ずな勇気と破壊的なエネルギーには、素晴らしい魅力がある。

彼女は気の強い、生活力のある人ではあるけども、女性らしい知恵と愛情が決定的に欠落しているようにも見える。強烈な自己愛の塊みたいな性格であって、根本的には他者を想えないのだと思う。
だから現実の男を見る眼も自分中心なのだ。そのことをやっと自覚する長い過程が、物語の一つのテーマなのかもしれない。

作者自身の人生体験がある程度、反映されているのだろうか。

一方、 リアリストであるがゆえに南部社会の旧態依然たる保守性や欺瞞には染まらず、戯言のような「大義」を鼻先で笑い、戦乱の荒波をたくましく泳ぎ切るバトラーには、男児として大いに魅力がある。たんなる悪党ではない。

ただひとつ気がかりなのは、作者もまったく視野に入れていないが、タラも含めて南部はそもそもアメリカ先住民の土地であったはず。だから白人支配の大綿花農園を「古き良き南部」であるとする「歴史認識」には、今日からみて、そのまま素直に受け入れるわけにはいかないだろう。過酷な奴隷労働に呻吟した黒人へのまなざしはない。

時代の制約をあと智慧で裁断しても始まらないかも知れないが、やはり南北アメリカ大陸全体の歴史の底流に潜む課題だろうと思う。まだ歴史の新しい国だから、やがてもう一歩掘下げた視野が育まれるのではないだろうか。

また、奴隷制度そのものも当時のイギリスではすでに過去の遺物になりつつあった。後発の時代遅れな制度だったのではないだろうか。人権問題も指摘されている。その意味で、限りない郷愁を寄せている「古き良き南部」は実は歴史の「あだ花」でしかなかった、という見方も有り得るかもしれない。
厳しく言ってしまえば、「滅びるべきして滅びた」ということかもしれない。南部の側から一方的に観た南北戦争の評価は、やはり視野狭窄を免れないのかもしれない。

実は、こうした経過は何かしら「大日本帝国」の終焉に一脈通じるものがあって、公開当時の日本人の琴線にも響いたようなのだ。戦後の荒廃から立ち上がる日本人、とくに生活を下支えする女性に勇気を与えたと評価する意見もあった。

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いずれにせよ、アメリカの歴史の中で黒人を含めた南部の文化が、今も豊かな奥行きを与えていることは間違いない。
「タラ」は、艱難に満ちた人生を生きる上で、人間のアイデンティティーが死活的に重要であることを示唆していると思った。

Gone with the wind はその記念碑的な作品なのだろうと思う。