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ナチズムとヒトラーをめぐるドイツの歴史論争   

芝健介氏の解説文によると、ナチズムとヒトラーをめぐる西ドイツ国内での戦後の歴史論争には、大きく分けて二つの潮流があったという。

まず、敗戦後の冷戦構造下では、いわゆる「全体主義論」という概念でナチス時代を把握する考え方が議論の前提にあった。ここで「全体主義による支配」というのは
「・・・・公的なイデオロギーを掲げる一政党が大衆をあらゆる手段で動員しつつおこなう現代の独裁支配を指し、このカテゴリーにはナチズムをはじめ極右の独裁のみならずスターリニズム等左翼の独裁も含める理論モデルである。東西冷戦下のアメリカではナチ体制と共産主義体制を本質的に同じとする全体主義論が現れ、しかもソ連批判に重点をシフトさせていったが、この時期のフェストの批判の重心はもちろんヒトラー主義に還元されるナチズムであったといってよい。」((ヨアヒム・フェスト著「ヒトラー最後の12日間」(2005年岩波書店)217ページ))

つまり東西冷戦のなかで、西側陣営に属する西独にとっては都合のよい概念で、陣営の正当性を意識した考え方でもあるのだろう。ナチズムも全体主義のひとつというわけだ。
全体主義支配による大量の虐殺事例は、ナチの「人種的抹殺」だけでなく、スターリニズムによる「階級殲滅」はもとより、歴史や地理を超えて、たとえばカンボジアのポル・ポトによる「階級的抹殺」なども該当すると思われる。(同222ページ)

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ナチのユダヤ人キャンプ

フェストの場合は、こうした全体主義論を前提にナチスを把握したうえで
「・・・・どんなに多くの時間を費やし、どんなに広い視野と識別技術をもって歴史を引き出してきたとしても、最後のところはヒトラーという人格に戻ってこざるをえず、あの出来事に決定的なインパクトを与えた彼個人の伝記から目をそらすことができない」(43ページ)
という具合に
「・・・・ナチ体制におけるヒトラーの位置、役割如何をその中心問題に据えて展開」する考察に収斂する。こうした思潮がひとつの極をかたちづくってきたのが「『ヒトラー(還元)主義』ないし、『ヒトラー中心史観』とも呼ぶべき解釈」(220ページ)なのだという。

すなわち、ヒトラーの「・・・・イデオロギーないし世界観と政治目標の一貫性という意味でのヒトラーの意図と動機が決定的に重視されなければならないという立場で、・・・・・このような歴史研究者は総称して『意図派』と呼びなわされてきた」(220ページ)という。
この延長線上に作品「ヒトラー最後の12日間」は位置しているが、ユダヤ人問題への目配りが決定的に欠けているという指摘があるように、果たしてこの「最後の12日間」だけでナチズムの全貌を過不足なく正確に描けるのか、という疑問はあり得る。「ヒトラー物語」に偏りすぎ、というわけだ。

ただし、ユンゲはじめヒトラーの最後を共有した人々の有力な証言などもあって、映画などの媒体でこれを劇的に描いたり演じたりすることは比較的容易だし一般に訴えやすい。それは日本映画「スパイ・ゾルゲ」が史実を現代人にもわかるように描こうと工夫したものの、却って全体として単調な説明調子に陥ったこととは対照的だと思う。「スパイ・ゾルゲ」は時代背景にとらわれるあまり「物語」性が弱くなったきらいがあると思う。その点は、映画「ヒトラー最後の~」のほうがヒトラーの個性の強烈さも相俟ってドラマチックに仕上がったように思える。つまり、映画としては面白いのだ。だが、そこに落とし穴もあるのだろう。

映画「ヒトラー最後の12日間」から、ヒトラー夫妻の焼却場面
映画「ヒトラー最後の12日間」から、ヒトラー夫妻の焼却場面

だから、このいわば「ヒトラー中心史観」に対しては強い反論があって
「・・・・ナチ体制の錯綜した制度、機関においては、合理的な規範に則って形成される安定した統一的政策や統治を行なう可能性が制限され、諸勢力・諸集団の重層的対立・競合の中、ヒトラーは機会主義的に状況に適応するしかなく、創造的な介入はなしえなかったのであるから、体制の現実・機能如何を問うことが重要とする立場」(同220ページ)
があったという。これを
「総じて、権力装置・イデオロギー操作についても実際の効果を問題にする立場で『機能派』と(の歴史家と)呼ばれる」(同)のだそうで、両派の議論は大変興味深い。

「機能派」の主張は

「・・・・全体主義論がイメージしいたような体制の『一枚岩』性を否定する一方・・・・・60年代後半から70年代にかけて、『過去の克服』が国民的課題として強く意識されていった西独の状況とも相俟って、ナチズム現象の分析に新たな洞察と刺激をもたらした。ヒトラー還元史観、『意図派』の主張とも重なるそれまでの全体主義論が、ヒトラーやナチ党リーダーを除くナチ時代の個々人やドイツ社会の犯罪を免責する思わぬ役割をおびたのに対して、『機能派』は1933年のヒトラーの政権掌握にも絡んで権力の受け渡しにナチスと共同責任を負うべき伝統的エリート(軍部、官界、経済界)の重大な役割も等閑視せず、体制の問題、とりわけ資本主義とナチズムとの関係を軸にした社会構造・社会編成の問題として把握するファシズム論の解釈の方向性を強く打ち出した」(221ページ)
のだという。

ずぶの素人流で、この議論を強引に日本にあてはめて解釈してみると、国策上の失敗責任をもっぱら軍部とくに陸軍にあるとする考え方が、前者「意図派」の主張を髣髴させる。
「統帥権の干犯」を盾にした軍部の政治介入、226事件などの政治テロを利用して政党政治を倒し、軍部独裁の道を開いたことが主たる戦争の原因だと説くのはわかりやすい。戦中派世代であった私の母の述懐にも沿う。
「軍人が調子に乗って威張りすぎたのよ」つまりは「軍部(特に陸軍)主犯」論。

一方、機能派の主張は、あの惨めな敗戦を、明治以来の日本帝国主義の構造的な矛盾の当然の帰結とみる立場に近いのだろう。そこでは軍部独裁は最終形態に過ぎず、そこにまで繋がった日本近代史の歪みが厳しく問われる。実は、この視点が説得力を持つのではないかと私なども考える。確かに軍部は断罪されたが、その他の「戦争責任を負う」勢力は戦後しばらくの間に復活したのではないだろうか。冷戦構造に組み込む過程で、アメリカは日本の保守勢力を復活させ「活用」した。そして、大雑把な見方だが、その必然的な行き詰まりが現在ではないかと思う。ポスト冷戦の絵柄がはっきりしない根本的な理由もそこにある。

たとえば、近衛文麿は早くから戦後の戦争責任問題を予想して、これを東条ら軍部に押し付ける考えを持っていたのだという。
「・・・・真珠湾奇襲の報に接して日本の悲惨な敗北を予感し、戦局が重大化すると、『せっかく東条英機がヒトラーとともに世界の憎まれ者になっているのだから、彼に全責任を負わせるのがよい』とし、連合国による天皇の戦争責任追及が天皇制廃止要求にまで発展するのを阻止するため、戦争責任のすべてを軍部、特に陸軍に意図的に押し付けようとした。当時の日本の状況とドイツの軍人側の事情には共通するものがあるようにもみえる。」(同226ページ)
という指摘は重要だと思った。
こうしたいわば「軍部主犯」論は、軍部の中国大陸侵略を諸手を挙げて歓呼したマスコミや国民一般、軍部と協力関係に合った財閥や岸信介などの「革新官僚」らの戦争責任を免罪する効果を与えたことになるだろう。つまり軍部の独走を許した背景を等閑視した、と主張するのが後者「機能派」に近い立場なのだろう。

確かに「軍部主犯」論は、戦後の東西冷戦のなかで陣営の一員として敗戦国家の再建を急ぐ西側の「旗頭」アメリカの意向には好都合だった。敗戦当時の日本の支配層も戦争責任を軍部押し付ける一方、「国体の護持」=昭和天皇と天皇制を免責することこそが最大の関心事だったのだろう。責任はもっぱら軍部にあるとした。

にわか勉強に過ぎない自分としては、こうした両論をそのまま鵜呑みにすることは避けて、今後の研究課題としておこう。

西ドイツでは、こうした主張は政治的な立場の違いをも反映していた。
「・・・・1970年代末両派の応酬は一頂点を迎え学問的対立にとどまらず政治的な対立をも輻輳させていったが、敗戦後40周年のヴァイツゼッカー大統領国会記念演説を契機に起こった86-87年の『歴史家論争』では、ナチスの犯罪を相対化しドイツ国民の誇りを維持する形で暗い過去の清算をめざす『歴史政策』を展開した保守派ないしネオ保守派と、ドイツの過去に厳しく臨もうとした革新派ないしリベラル左派という形での対立に拡大激化した。」(同222ページ)
しかしこの議論は結末をむかえることなく
「・・・・いずれにしても、歴史家論争において・・・・・『意図派』の劣勢は否定できなかったが、決着がつけられないまま87年には下火になり、1989年のベルリンの壁崩壊、1990年のドイツ統一という破天荒の事態を向かえしだいに過去のものとなっていった。」(223ページ)
というのが現状だそうだ。

第二次大戦という莫大な負の歴史を背負う西ドイツが、いかに「戦争責任問題」を清算するか苦闘したことがよくわかる。議論に決着がついていないことも含め日本にも似た事情があるのだろう。いまだにあの戦争についての解釈方法がドイツ以上に分裂・対立しているように見える。
ここまで知ってみると、トラウデル・ユンゲが、なぜ60年代以降になって自らの戦争経験に深い葛藤をもち、人間として苦しみ始めたのか、その社会的な背景もわかるように思った。

そして注目すべき論点は、対ソ戦を契機とした軍事的敗北が次第に鮮明になってきたにも関わらず、なぜベルリン陥落までヒトラーが展望のない戦いを続けたかのかという疑問がフェストや「意図派」の解釈では解けないのだという。
すなわち、ナチス・ドイツの破滅をヒトラーの破壊的な行動、その偏執的なニヒリズムだけに単純化して論ずることの誤りを
「・・・・戦争でもはや勝利しえないならば、『ユダヤ人に対する戦争』で『勝つ』しかなかった。ホロコーストについてほとんど言及していないフェストの本音は、むしろホロコースト中心に論ずればドイツ史の叙述を歪める、というものであるが、ホロコースト犯罪ゆえに負けた戦争を無窮運動的に続けなければならなかったという側面を見逃してはなるまい。この問題を逸しては、失衡のドイツ史」といわざるをえない。」
と厳しく指摘していることだろう。

若きユンゲ嬢もまた、総統地下壕に籠ってベルリン陥落までヒトラーに仕えていた時には、眼の前にいたヒトラーとナチが犯したホロコーストの巨悪をほとんど知らなかったのだ。