カテゴリー
時事 歴史

トランプ現象を見て思うこと

 大統領選が終わってひと月たちました。この間、選挙期間中のトランプ大統領と支持者の行動について騒々しい議論が起きました。
秋深まる気配のなかで、少し落ち着いて、選挙そのものとは少し距離を置いて考えてみたいと思います。

 日本人のなかにも、トランプに共鳴するような声が一部あります。確かに、負けたとはいえ、7400万票も集めたことは軽視できない。なぜこんなに大きな騒ぎになったのだろうか。
 私は、これはトランプ自身の「特異性格」だけに原因を押し付けられないのではないか、と思うようになりました。そして、これだけの支持を集めたのだから、大統領が交代したくらいで解決するほど単純な話ではないだろうとも思う。

専門家ではないのでアメリカ政治の分析はできません。
むしろ、素人なりにもう少し長い歴史のスパンで、一つの社会現象として、とらえてみたいと思います。そして、これを自分の住む日本も含めて非力ながら読み解いてみたい。
 以下は、あくまで個人的な試論です。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: P1100790.jpg

 トランプ本人は不動産王であるとともに、テレビでも相当人気者だったようです。大衆を興奮に駆り立てる手法に洗練してきた人なのでしょう。テレビで流行らした「You are fired!」(お前は首だ!)などという言葉も、それらしさが良く出ています。
 しかし、政治大国の指導者にしては、言動がとても軽薄に見える。

 その話し方はいわば一方通行で、「合衆国」の大統領になっても、支持者にしか向いていない。ともかく気に入らないものはすべて「フェイク」と決めつけて、ハナから対話拒否で済ませる。口を拓けば滑稽なほどの自画自賛と品のないライバル攻撃。私も自分を棚に上げて言いますが、辟易した人も多いでしょう。そんな人物でも大統領になれてしまう。恐ろしいことに、それが世界最大の核兵器大国でもある。
 これは「ポピュリズム民主主義」の陥穽だとよく指摘されていますが、逆に現行の「民主主義」という仕組みでは、そんな人物も登場するのだとも言えます。
 彼は極端な例かもしれませんが、やはりそこには出るべくして出た理由があるのではないか、と思うようになりました。

 よく指摘されるように、現代は伝統的な価値観の縛りが緩むにつれて人々の心理も揺らいでいると言われます。つまり、倫理基準や善悪、正義と不義の境界、真偽の区別など様々なボーダーラインがぼやけてしまった。しかし、新しい秩序の基本となるような理念もはっきりしないので、人心も社会も荒れて混迷を深めているのだと。

 学校の歴史で学んだところによれば、「近代化」(本稿では大雑把に14世紀に始まったルネサンス、16世紀中葉からの宗教改革以降と仮定します)とは、西欧一般ではカトリック教会の権威が弱り、その影響力が社会から駆逐された過程でもありました。これは、当然ながら教会が提供する規範(モラル)機能が弱まったことと並行しています。代わりに世俗的な(「政教分離」で担保された)国民国家の成長と科学技術の発展が産業革命を促し都市化も起きた。信仰も聖職者の独占から切り離されて、「合理主義」や「啓蒙主義」の鋭い吟味にさらされました。
 言い換えると、近代では信仰よりも人間の「理性」が優勢な拠点概念になりました。また、すべてを物質の因果関係に還元して説明しようという態度も有力になりました。私自身も、かつてはそうした考え方をもっていましたが、今ではそれが唯一の方法ではないとも思うようになりました。
 確かに科学技術文明の圧倒的な興隆は、快適さと大量消費を実現しましたが、一方でその急発展(例えば「軍事技術」や「生命科学」「IT技術」など)に人間自身の規範意識が追い付かず、戸惑っているようにも見えます。なぜかというと、精神性(物質に還元できない価値)が相対化され衰弱したぶん、欲望への歯止めが弱くなったからです。これはキリスト教圏に限らず、世界的に同じような傾向が見られます。それまでは、もっと神仏への畏敬の念が人倫の基礎にあったのでしょう。 同時に、自然をあたかも侵略対象とみなす「環境破壊」も深刻になった。

 換言すると、眼に見えない世界からの規制が薄れ、即物的な現世主義が有力になった。欲望の肥大が人間世界の争いごとをより拡大・苛烈化した。物質主義的な大量消費社会への急激な変貌が、今では逆に人間を脅かしているのだとも指摘されています。 それは現代人の心の歪み、その衰弱や環境汚染などにも反映しているのでしょう。

 近代以降で、こうした動向がやがて国家レベルにまで拡大した荒々しい政治現象が「西欧帝国主義」ではないかと思うのです。その実態は、弱肉強食の植民地奪い合いであり、中東、アジア・アフリカを情け容赦なく蹂躙しました。敢えて単純化すると、明治維新以降の日本も、後発的にこの政治趨勢を猿真似して大失敗(大東亜戦争)したように見えます。

 一方、現代は息苦しいストレス社会だとも言われます。近代化の結果、人々は経済効率を追求する資本主義の激しい競争のなかで「生産性」とか「能力」、「コスト」などで厳しく選別・序列化され、とてもハードな「優勝劣敗」、「適者生存」の袋小路に追い詰められています。
 本来、人間の価値は「合理性」や「数量化」だけでは結論できないのに。
 私たちは自然から切り離され、人工のジャングルのなかに閉じ込められたうえ、「経済効率」に追われて生活しています。一見自由なように見えますが、その実はとても不自然な環境に置かれ、過酷なストレスがもとで時に精神を病み、今や素朴な「人間性」をすら失いつつあるのかもしれません。

 日本社会も例外ではないと思います。
 私も半世紀前の「偏差値世代」ですが、告白すれば、試験の成績で人間が「等級」化されるような「倒錯」に甘んじていました。厳しい「受験競争」のなかでは、友だちですら「競争相手」に見えてしまう。今思い出すと、これは不幸な「分断」だった。ところが、そうまでしてせっかく大学を卒業しても、忙しい割には充実感の乏しい社会生活でした。出勤途上の人々の表情の険しさが思い出されます。毎朝、なぜあんなにしかめっ面で追いたてられたのだろうか。

 地域をみても、かつて教会や寺社が核にあった伝統的なコミュニティーも、産業社会化の進展とともに起きた人口移動(都市化)などで過疎化したため、そこにあった人間のセーフティ・ネットワーク(つながり)も衰弱したと言われます。
 多くは寺社の参道にあった地方都市の商店街では、軒並みシャッターが降りて閑古鳥が啼いています。さらに農山村の「限界集落」には取り残された高齢者の後ろ姿ばかり。一方で東京などの大都市は人口過密でストレスに溢れ、お金がないと快適に住めない。歴史上、こんなに国土の均衡が崩れたことはないのではないか。

 こうして大雑把に見ると、近代化とは、 非宗教化による欲望の無制限化、社会の世俗化、 世俗化、産業化、都市化、核家族化そして個人主義化などのプロセスも相まって、あたかも孤独な人間が素っ裸で危険な荒野に放り出されたような殺伐たる社会状況を生んだのだろうと思います。

 話をもどしてかつてのアメリカの場合、プロテスタント教会がコミュニティーの中心にあったと思いますが、やはり近現代化のなかで激しい変化にさらされたのでしょう。また、先住民を残虐に追い詰めた西部開拓時代の「銃社会」の伝統も流れ込んでいます。もともと新大陸に信教の自由や生活の希望を託してやってきた人たちが植民してできた若い合衆国なので、そのぶん人工的な国家原理であったものが今、根底から揺らいでいるようにも見えます。
 他方、その反動として、合理的な思考法への反発からか、伝統的な規範を頑固に維持しようとする、保守的な宗教運動(テレビ伝道など)が大きな勢力になって政治を左右しているとの報告もあります。それは突き詰めるとアイデンティティーの戦いでもあります。
 この社会状態では、相当に精神的な緊張が強いられるのは頷けます。

 この文脈のひとつが「トランプ現象」という、いわば集団ヒステリーみたいな騒ぎに見えるのです。

 トランプ的なキャラの特徴には、人間精神の退行化(反知性主義)=幼児化が見て取れます。「おとなの分別」(セルフ・コントロール)を投げ捨て、あくなき欲望を自己正当化する「駄々っ子」みたいな姿です。手の付けられない主観性や性急さは、異論・反論も尊重しながら対話の合意点を辛抱強くさぐるようなプロセスを否定します。まどろっこしくて我慢できないのです。 彼の「政治集会ショー」は、人々の求めに応じてその劣情を煽る「るつぼ」=熱狂に過ぎないように見えます。

 「政治」や「外交」もまるで「不動産取引」レベルの延長線上で考えているのかと疑います。だから、「ならず者国家」からも御しやすいと見られたのでしょうか(2019年2月のハノイ会談)。こうした軽薄なディールが果たして「外交」に値するのでしょうか。 失敗は明らかです。国家レベルの「合意形成」になりようがない。 これをはやし立てながら見ている人も多かった。両方とも現代世相の「精神的貧困」を反映している。
  よくラストベルトの「白人中間層の没落」が背景にあると伝えられます。経済構造の変化、後発移民の流入などで、自分の生活が脅かされ、生活や仕事が思うようにいかないと感じている人々が多数発生しているらしい。
 トランプのアジテーションは、その焦り、苛立ち、妬み、怒り、そして孤立感などの「負の感情」を集める「磁場」になりやすい。ものすごく単純で暴力的なのです。「アメリカ・ファースト」「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」 とかの短いフレーズがその気分にピッタリ会うのです。実は単なる反動感情に過ぎないのではないだろうか。  
ネット環境もこれに輪をかけます。SNSもたんに一方的な感情を拡散するツールになりやすい性質を持つからです。パソコンと自分だけという閉鎖空間は、いわゆる「オタク」状況に嵌りやすい。せっかくのSNS技術も、発作的な「言葉の毒矢」を飛ばすためのマスターベーション・ツールになりかねない。

 この特徴は程度の差はあれ、SNS文化全般に見られます。
 こうした不満感情の暴発は、既存のエリートや専門家、メディアや言論にも強い不信と反感を投げつけます。いわゆる「反知性主義」(=感情論)なので、コロナウイルスのパンデミックや地球環境問題を感情的に否定(見たくないものを見ないように)してしまう。それがかえって甚大な悪循環を社会にもたらす可能性もあります。 (いわゆる「エコー・チェンバー」現象など )

 大統領選での狂信的な熱狂は、自分をトランプに「投影」した「暴力への衝動」が猛威を振るうのだと見てとれます。だから、憎しみにまかせた独善、排外主義、陰謀論が妙に「受ける」のです。
 
 しかしよく見ると、人々が口角泡を飛ばして交わす「言葉」は、実は自分で考えたものではない。
すでに誰かがどこかで吹聴した「借り物」の妄言を、そのままオウム返しに怒鳴り合っているに過ぎない退行現象です。そして残るのはむき出しの「腕力」だけという惨状を呈します。
 当たり前のことながら、本当のトランプその人を知っている人はごくわずかです。さかんに「勝利者」を演じるが、実は「幻」ではないか。これはまるでカルトに近い。

 歴史を辿ると、冷戦構造の恐怖感を背景に、根拠のないデマが拡散して社会に甚大な傷を与えたという「赤狩りマッカーシー旋風」(50年代後半)の前例もありました。もともとある程度の下地があるのでしょうか。
 不幸にもこうした攻撃の矛先は、より弱い立場の人々やマイノリティーへの暴力に転化しやすい。差別やいじめ、幼児虐待など。
 そして、この情緒は同じ条件下にある反トランプ陣営にも伝染しやすいのです。怒りと憎しみは音叉のように共鳴するからです。スポーツ観戦における「興奮」と大差ないのではないか。

今、気づくべき教訓は、こうした政治環境が
本来争う必要のない人間を、分断し相克する、不幸な事態を招いていることだろうと思います。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: P1100643.jpg

 キリスト教国ではないですが、日本の明治以降の近代化過程にも極端な振幅があったように思います。
 大雑把に言うと、まず「日清・日ロの大勝利」(実は、ほぼ辛勝だったに過ぎない)で舞い上がって自分を見失った。その延長線上に日米戦での完膚なき惨めな敗戦
 戦後は軍国主義を支えた歪な「精神主義」への反動で、「神も仏もあるものか」とばかりに一気に高度経済成長という「物質主義」に走った。しかし、あっという間に「経済大国」の栄光は消失しました。今では「幻」のように思えます。
 そして、ここ30年近い経済停滞期。特にバブル崩壊後は「構造改革」とか「新自由主義」だとかの美名のもとに冷酷な経済格差が広がったようです。経済も人間も縮小した「パイ」をめぐるみじめな争いに堕した。いわゆる「勝ち組」と「負け組」の差です。「上級」「下級」国民などという嫌な言葉が出回った。
 この間、日本の良き伝統や人間としてのたしなみまでかなぐり捨ててしまったのではないか、という反省も聞こえます。

 テレビやネット空間でも、ギスギスした「言いっぱなし」「早勝ち問答」「あげ足取り」が横行。広告収入のため、視聴率を優先しますから、まじめな議論を安っぽく「見世物」化した。法に触れさえしなければ、なんでも言いたい放題というような傾向もあったのではないか。
 特に質の悪いのは、「改革者」を演じているが、それは実はポーズだけで、ちゃっかり権力中枢と呼吸を合わせた営業「評論家」「コメンテーター」。さらに、よく見ると「人気者」たちの姿には、実は叩いてもさほど怖くない相手だけを「敵」に見立てて、「バトル」を演じているに過ぎないのではないかと疑いたくなることもある。
 視聴者の劣情にあわせた露悪的な「人気稼業」が受ける。
 これでは、「ガス抜き効果」はあっても、世の中は少しも良くならない。人々が「パンとサーカス」に興じているうちに、国が滅びてしまったというローマ帝国を思い出します。


 パフォーマンス優先で見栄えの良い人はいますが、なかみがない政治にはあまり期待できない。政治家(屋)はもっぱら「人気」とりに勤しみ、権力や地位の維持に汲々としているのではないか。
 もともとまともな理念を持って政治に取り組んでいるような人は少ないように感じます。有権者の声を聴くどころか、実は違う次元で動いている。内容がないので「心」に響くメッセージ性も希薄。有権者は、選挙の時だけまことしやかにふるまう「ゲテモノ」を何回もつかまされて、ほとほと政治が嫌になったのではないだろうか。
 こちらがしっかり見抜かないと、いつまでたっても有権者が損をするだけではないか。
 制度としての民主主義に「精神性」が脱落しているからです。
端的に言って、人間界の「分断」は精神力の衰退がもたらす「了見の狭さ」、知性の退嬰に起因しているとも言えるのではないかと思います。

 では、こうした分断と混乱、行き詰まり状況をどうしたら修復し人間を回復できるのでしょうか。
漠然とした感慨ですが、私は以下のように考えます。

ひとことでいうと、根本的には自他ともに人間自身の「生き直し」が必要ではないかと思えます。まず「政治」とか「経済」の制度をうんぬんする前に、人間自身の歪みや汚染を是正・浄化しなくては砂上の楼閣になりかねない。

 これには上からの権威主義的な道徳や規律をそのままの形で押し付けても処方箋にはなりません。また、従来型の精神修養でも効果は薄いでしょう。宗教も既存の姿のままでは、とてもこの要請に充分応えられない。そもそも神仏の黄昏が招いた現象だからです。
 出来合いの手法では、もうどうにもならない。

「人間自身の生き方」に転換を迫るわけですから、本当はとても深遠な哲学的テーマ・・・「精神性」の回復なのでしょう。迂遠なようですが、そういわざるを得ない。

 では、とりあえず今できることは何か。
 遠回りに聞こえるかもしれませんが、人間の結び合いを修復するために、落ち着いた「対話」の場を小さな単位で増設してはどうかと思います。まず互いに心を開いた交流空間を「草の根」から試みることで、突破口を開くことが必要ではないだろうかと思います。

 当然ながら「理性」「客観性」「納得性」「共感性」「協調性」などを、人間一般の優れた「徳性」として尊重すべきだと思います。だから、そのための忍耐力、持続力を養う必要もあります。悲観を乗り越える強靭さも要ります。
 
前提として「啓発」や「教育」による草の根の「意識改革」を促がす必要がありそうです。そこに、先に指摘した「哲学」が必要なのだろうなと思います。
 いずれにせよ、行き詰まったら原点に返って、やはり「人間という共通の土壌に立つ」しかないのだろうと思います。社会生活上の属性をいったん相対化した対話空間の設定が必要だろうと思います。
 その場合、まず究極の大前提として「命の尊さ」を共有することから開始するのだろうと思います。

 天災、地球環境問題、核兵器のリスク、内乱と難民、人間性の喪失など、人類に共通する差し迫った危機は山積しています。そもそも人類の存続も危うい。
 争っている時間はないし、我々は奪い合うために生まれ合わせたのではない。地球の再生、復興(レジリエンス)をめざすことに誰も異論はないでしょう。
 これだけのグローバル時代ですから、もはや人種、民族、国籍、宗教などの(小さな)差異をなんとか乗り越えて調和し、共生する努力を優先すべきでしょう。
  
 その場合、まずは「生命」とか「生活」とかが発想の原点であり、「同じ人間」としての交流対話が大切なキーワードになるのではないかと思う。そして人間の基本を突き詰めると、やはり「生老病死」の意味から再考することになりそうです。ここからさらに「環境」や「人権」「平和」へと発展できれば大きな前進だと言える。


 具体的な世の中を見渡すと、例えば国連が提唱する包括的なSDGSなど、世界にはすでにこうした危機を深く認識して持続可能な社会を実現しようとめざす真剣な模索も始まっています。地雷や核兵器を禁止する運動、人権の擁護と拡張、難民救済、差別の撤廃、あらゆる暴力の否定、地球環境問題に取り組む人々など、誠実に人類の存続を追求する姿もあります。

 自分の正直な「反省」として言えば、これまで「敵か味方か」「上か下か」「優劣」「勝敗」などといった分離対立・彼我の差別・競争概念を優先する思考様式そのものが人々を傷つけてきたのです。また、余りに問題がマクロなので、 ミクロな自分ではハナから無理だとあっさり諦め、自分に閉じてきた姿勢もあるでしょう。
 しかし、ガンジーもたった一人からはじめて、3億5千万のインド独立を達成した。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: P1100667.jpg

 「人間という原点に返る」ということは、身近なところからの出発だと思う。「俗悪」で「愚か」な 側面だけを強調するのではなくて、 むしろ粘り強く「善性」を見つけ、啓発し合い、連帯しようとする努力が必要だと思います。
 例えば、勇気を出して「挨拶」を交わすだけでも、対話の糸口になりうる。地味かもしれないが、地域のサークル活動なども、大きな貢献になってくると思います。

 こうした「草の根」の活動には、一見して膨大なエネルギーを無駄に消費するように感じられる時もありますが、「雑用」を厭わず取り組む姿勢も必要だと考えます。むしろ、そこに「意味」を発見できれば、無駄ではなくなる。近代の偏向ー「効率一辺倒」をいったん捨てると違うものが見えてくると思います。
 なぜならこうしたネットワーク組織の在り方は、生活現場から決して離れないことが正否の分かれ目だからです。人間は「機械」ではないから、すべてを「合理化」「効率化」できない。人々を頭数でとらえ、上から支配し動かそうというような、従来の政治思考法にある「危険性」は強調してもし過ぎることはない。

 ひとりひとりが主役で全員参加、無理のない漸進的改革を担保するためには、運動体の事務(ほとんどが雑用)を担う「スタッフ」は必要です。しかし、一部のリーダーに大きな権限を任せる方式には「権力の暴走」「急進過激化の誘惑」を避けられない。これは20世紀の失敗でした。 「前衛」と「大衆」などという分け方は大間違いでした。
 「良きことはカタツムリのようにゆっくり歩む」とのガンジーの格言のほうが正しかった。
その基礎には、強靭で卓越した「精神性の連帯」があったと思います。

 時間がかかっても、より多くの納得をめざす。「完全な解」などないのですから、よりましな匍匐前進で良いのだと思います。
性急に結論が出なくてもよい。
「カタツムリ」とは言い得て妙です。そのために、少数意見をどれだけ多数派が尊重できるかが社会の「健康度」でもあると思います。むしろ、老若男女の違いや持ち味を生かす「人の組みあわせ」に熟練することも必須だと思う。誰しも置き去りにしない、それぞれが主役(主体者感)を担えるように、知恵を巡らせる必要があります。 

 多様な立場、来歴の異なるすべての人々の内発的な「智慧」の発現(エンパワーメント)を開発するためには、こうした「理念」を「理性的」に訴えるだけでは足りない。
 人々の心情を満たし、潤いや蘇生を与えうる「舞台装置」や「物語表現」など素朴な工夫をすればいろいろできる。インターネットも活用次第で「分断」とは反対の方向に使える可能性があると思います。広告収入などない方が良い。

 現状は深刻ですが、素朴で平凡でも良いから明るい「楽観性」「理想」「希望」そして「素朴さ」を備えたほうが人々を集める魅力がある。さらに言えば、こうした結びあいの基調は「励まし」なのだろうと思います。人は奪い合うために生まれたのではなくて、分かち合うために生きている。その組み合わせを工夫する智慧が尊い。

 もちろん口で言うほど簡単な作業ではないが、様々な実例を拝見して、「人々を結びなおす」作業は具体的実践的に可能ではないかと思います。

 大げさに言えば、こうしたボーダレスで新たなヒューマン・ネットワークのうえに、政治、経済、文化も人間のための「組み換え」ができるようになるのではないだろうか、と期待しています。それにはまずは人間自身の「生き直し」から始まるのではないかと感じています。
そのための新たな力ある「哲学」が必要なのだろうなと思ました。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: P1100542.jpg