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漫画「アドルフに告ぐ」とゾルゲ事件(5)

昭和18年9月29日東京刑事地方裁判所第9部の判決文を読んでいて、興味深い文面に気づいた。

この判決でリヒャルト・ゾルゲは死刑判決を受けているが、判決理由の冒頭にことさら大袈裟な表現で
「被告人は嘗て『カール・マルクス』が『第一インターナショナル』を創設したる当時其の書記として活動したる『アドルフ・ゾルゲ』の孫にして・・・・」
とあるのは、この時代の雰囲気がよく表現されている。

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みすず書房 現代史資料

まるで、極悪人「カール・マルクス」の直系の血を引く、おどろおどろしき「アカ」の末裔、といった描き方なのだ。なにか時代劇の捕り物の口上のような始まり。この事件当時の日本の司法当局が、共産主義者をどう見ていたかを雄弁に物語っているように思われる。
言葉つきも、いかにも居丈高なのだ。国家が民衆を睥睨していた。

同じ資料の中に収録されているゾルゲの手記をあたってみよう。ゾルゲは本当に「悪漢の血筋」なのだろうか。

みすず書房 1962年刊の「現代史資料 ゾルゲ事件1」には(一)と(二)に分かれて手記が収録されていて、同書の解説によると

「・・・・本文テキスト(一)は、内務省警保局偏『昭和17年中に於ける外事警察の概況』の512-35ページに拠る。本文の最初にある特高警察の前書によれば『左に揚ぐるはゾルゲの取調に当り、本人に作製せしめたる手記にして、・・・・・その内容は今後の検挙取締上熟読玩味すべきすべきものあり』と書かれているが、おそらく本テキストは、1941年10月18日検挙されたゾルゲの、ほぼその一週間後27日月曜日(毎日9時より3時まで)より開始された司法警察官に対する供述の内容を基として、特高警察が内部用にサム・アップし、手記の形式に整えたものではないかと想像される。従って本テキストは判決のさい証拠として採用されていない。・・・・真に手記というべきものは本書にリヒアルト・ゾルゲの手記(二)として掲載されているもので、ゾルゲが検事に対し、自らタイプして提示したものである・・・・・」
とある。

つまり手記は二つ残っていて、(一)は
「・・・司法警察官の訊問調書が本書に収録されていないために、この時期のゾルゲの供述は、本テキストによって知るほかない」資料であって、(2)については

「1941年10月以降、ゾルゲ自身がタイプで打った原稿(ドイツ語)に基づくものである。生駒佳年氏(当時東京外語教授)によるその邦訳全文は1942年2月、司法省刑事局刊『ゾルゲ事件資料』(2)に前半を、1942年4月司法省刑事局刊『ゾルゲ事件資料』(3)に後半が印刷され、政府の関係者に配布された。・・・・・」ものという。

また、「生駒氏の訳された日本文は英訳されて、1951年8月のアメリカ下院非米委聴問会において、証拠書類として提出された・・・・」(いずれも同書)
とあるが、別途後述するように、戦後冷戦期のマッカーシズム時代に占領軍GⅡのウイロビーにも「利用」された。それは、冷戦時代の米国事情を反映していて「共産主義」の恐ろしさを宣伝するためだった。
確かにこの頃、ハリウッドは「冬の時代」を経験していた。

ゾルゲ事件担当検事であった吉河光貞氏が1949年2月19日、極東軍GⅡの命によって提出した供述書によると

「1941年10月私は東京地方裁判所検事局に勤務を命じられていた検事でありました。・・・・・当時東京拘置所に拘禁されておりましたリヒャルト・ゾルゲに関し、検事の取調を行うよう命ぜられました。私は取調を1942年5月まで行いました。・・・・・取調べの進行中、リヒャルト・ゾルゲは、すすんで私に対し、彼の諜報行動の全体のアウトラインに関する記述を作製の上、提出したいと提議しました。この提案によって、リヒャルト・ゾルゲは私の目前で検事取調室において、ドイツ語でその供述を作製しました・・・・その供述の1章または1節のタイプが終わると、ゾルゲは私の前で読み、私のいる前で、削除や追加をしたのち、私の方へ手渡したのです・・・・」

吉河氏の述べるところによると、氏自身ドイツ語も英語も不十分だったが、ゾルゲは話が詳細に渡って難しくなるので、通訳を取調べに入れることには反対したという。そこで吉河検事は不十分ながら辞書の助けをかりて、手記や訊問調書をゾルゲとともに合作したという。原文はドイツ語だったのだろう。
そして、取調べのおわたったあと生駒氏が正式の通訳に採用され、日本語翻訳文を作製したものらしい。ドイツ語の記述についても異論ないかどうかゾルゲに訊ねたうえでゾルゲの署名を付した。
このときのドイツ語の唯一の原文テキストは司法省の戦災で亡失しているが、訊問調書の写しは保存されていて、戦後アメリカ占領軍によって没収されたという。
ただし、この手記が起訴の材料にまでなるとは、ゾルゲ自身は当初書くとにきは予見しなかったらしい。

このときの「言葉の壁」が、取調べに大きな困難を与えたことは興味深い。ゾルゲに通訳として接した生駒氏が後年に貴重な回想を残している。

「・・・・・本来ならば検事の取調べと予審廷での訊問は別の通事を用いなければならないのだが、その時は他に人がいなかった為再び私が通事を依頼される仕儀となった・・・・」(同現代史資料)

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戦後進駐軍に接収されたあとの「巣鴨プリズン」

この当時の日本で、ドイツ語を母国語とする外国人を取調べ、裁判にかけることがいかに困難な作業であったかを彷彿させると同時に、故郷から遠く離れた極東の異国で、言葉も満足に通じないなか、刑事被告人として極刑も想定しながらの孤独な獄中生活を送ったゾルゲの心中も思いやられる。

ところで本題にもどって、ゾルゲが祖父の思想的影響をどれだけ受けていたのかというと、この手記を読む限り、そうはいえない。
たとえば手記(二)第3章 「ドイツ共産党員としての私の経歴」(同現代史資料214項)を紹介すると

「1914年から1918年にわたる世界大戦は、私の全生涯に深刻な影響を与えた。・・・・私はこの戦争だけでりっぱに共産主義者になったものとおもう。・・・・・」
とあるし、肝心の祖父については
「・・・・私は、祖父が労働運動に尽くしていたことを知っていた。そして父の考えは祖父の考えとはまるで正反対だったことも知っている。・・・・」
と客観的に触れているが、祖父の思想・行動がゾルゲが共産主義を主体的に選んだことに何らかの影響があったとは読み取れない。

判決文そのものは、そのあと事細かな罪状を大量かつ克明に書き連ねていて、読んでいても退屈だが、そこは役人仕事でおそらくゾルゲの証言を正確に逐次反映した内容なのだろう。しかし、ゾルゲと取調べ側との間には神経戦にも似た取引があって、それ相応の妥協や合意はもちろんあったようだ。
更には日本側でも国内事情があって、特に軍部の憲兵隊と内務省管轄の特高警察との縄張り争い、感情的な反目も指摘されている。こうした複雑な状況の中で「国際諜報団」は特高に摘発され、取調べを受け、そして裁判から判決へと進んだのであったのだ。
最終的に上告棄却は昭和19年1月。

特高側も、最初からゾルゲや尾崎のような大物が網にかかると想定していたわけではなかった。日本人共産主義者を虱潰しに取り締まり検挙しているうちに、芋づる式にアメリカ帰りの宮城にたどり着いた。それがこんなにスケールの大きな国際ネットワークにたどり着くとは、想像の埒外だったようだ。

検挙(41年10月)後の司法省の発表は翌1942年6月16日で、ゾルゲや尾崎の検事調書が済み、証拠堅めが成ったあとだった。国民一般に周知されたのはこれが初めてだった。

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その中の司法内務両当局談には
「国際諜報団事件については、捜査当局の不眠不休の努力の結果やうやくその全貌を明白ならしめ、不逞組織を根柢より覆滅することを得たのであるが、大東亜戦争の開始に先立ち、これを検挙することを得たについては真に関係当局の労を多としなければならない・・・・」(同542項)
「・・・・当局としては、今次事犯の経験に鑑み、この種不逞分子に対する取締を一層強化しその徹底を図ると共に・・・・」(同)と記している。

そして「・・・・上層部その他の有識層の各位において、軽々に国際的秘密事項に関する論議をなし不識の間に秘密事項を察知せられるが如きなきやう格段の自粛自戒を切望してやまない・・・」(同543項)
といった具合に取り締まり方の権威をもって、居丈高に関係者を恫喝している。剥き出しの権力意思だ。

ともかくいきなり「不逞組織」「不逞分子」と決めつけて憚らない。しかも「治安維持法違反」の罪科を適用するために、国体変革や私有財産制を否定する革命運動と強引に関連付けた恣意性は否めない。
そもそもゾルゲの諜報活動はソ連のための行動であって、日本共産党の非合法活動と直接の連携はない。また、ソ連当局からも、ゾルゲたちは現地共産党と連携することは厳しく禁じられていたと手記でも予審でもゾルゲは述べている。常識的に考えても、この当時の日本の共産主義活動家と連携することは、かえってリスクを高めるだけだ。
それにゾルゲの身分は、すでにコミンテルンからははずれていた。

スパイ行為だから「国防保安法」や「軍機保護法違反」「軍用資源秘密保護法」違反に問われることはゾルゲたちも覚悟のうえだろう。しかし、日本の共産主義革命を取り締まる「治安維持法」違反で外国人のスパイ活動を裁くのは、やや無理筋を感じる。手記を見てみよう。

「・・・・かくして、コミンテルンから分離された結果、私に課せられた任務の性質にははっきりした変化が認められた。私は、中国及び日本の共産党とは一切の交渉を禁ぜられ、勝手に会うことは勿論、彼らを援助することも許されなかった・・・・」(同141項)

「・・・・組織上私がモスクワとそんな関係にあるかという点については、私には何らの説明を与えられなかった。従って、私は一体どんな機関に所属しているのか不明であった。また、私の方からも敢えてこの点について尋ねてみることをしなかった・・・・私がいろいろと考えてみた結果得た結論は・・・・党の最高部、従ってソヴィエト政府の最高部で使用されたことは確かである・・・・」(同142項)

「・・・以上を要約するとこういうことになる。私は、日本におけるスパイ団の長として直接、かつ専らソヴィエト共産党中央委員会との間に関係を持っていた。なお、私の仕事の技術面と若干の諜報活動については赤軍の第4本部にも属していた。前にも述べたように、コミンテルンと私の関係は単に間接的なものにすぎなかった。・・・」(同143項)
微妙な言い回しながら、日本における共産主義革命には直接関与していないと、はっきり述べているのである。

しかし、ソ連赤軍の配下であることだけを衝かれると、今度は憲兵隊にまわされかねない。特高がこの事件をあくまで自分たちの縄張りで裁こうとした思惑が「治安維持法」適用につながったのだろう。当初取調べにあたった警察庁外事課の大橋部長の証言では、ゾルゲも憲兵に捕まると、いきなり銃殺になるのではないかと恐れたから、特高の説得に応じたのだという。取調べ、公判はこうした事情を反映した「合作」なのではないだろうか。

しかし、この段階ではまだゾルゲは助かる可能性に希望を持っていたようだ。確かにスパイではあっても同盟国のドイツ人であり、ドイツ側がどうでるか不明であったし、肝心のソ連とも日ソ中立条約を結んでいるので、折からの太平洋戦争の動向も含めて、分析家ゾルゲにはまだ状況の変化から脱出への可能性が充分あると思えたのだろう。
かつて上海では蒋介石政府のもとで「ヌーラン事件」(1931年)といって類似の事例があったが、最終的にソ連の干渉でスパイは国外退去というかたちで命拾いしている。
しかし、その後のソ連のゾルゲ事件への態度(まったく無視だった)や戦時体制下の日本という悪条件の下では、不幸にしてゾルゲの願いは叶わなかった。
こうして極刑が確定した。

「本件上告はこれを棄却す。 昭和19年1月20日   大審院第一刑事部」

いずれにせよ、手塚治虫の傑作漫画「アドルフに告ぐ」に描かれたように、「アカ」と呼ばれた人々に対する残酷な弾圧、人権蹂躙は、こうした政情のもとで白昼堂々と強行された。治安維持法は拡大解釈され、当局の判断次第で共産主義者以外の人々でも容赦なく取り締まり、検挙し、残酷に拷問した。戦争に反対する人は無論、政府の政策に疑問を表明するような人はたちまち「アカ」のレッテルを貼られ残虐な扱いを受け、その家族は「非国民」として社会から村八分の扱いを受けた。宗教統制に従わない教団も徹底的に弾圧された。そこに島国特有の悪しき集団主義が猛威を振るったのだ。
この時代の日本は、手塚治虫の描いたとおり、まさに「暗黒時代」そのものだったのだ。

この判決文冒頭の表現や司法内務当局の発表文も、そうした社会状況を有り体に反映しているのであろう。亡くなった叔父がよく「・・・大正生まれは本当に(歴史の)被害者で損した」と問わず語りに話してくれた言葉を思い出す。戦時下に青春を送った世代の偽らざる述懐だと思う。

同書巻末の「歴史の中での『ゾルゲ事件』」によると、

「・・・・1941年10月ゾルゲら検挙の報は、日本の支配層に電撃のように伝わった。それは、厖大な流言の洪水を招いた。・・・・・一般の人民は、つぎの司法省の発表まで、何も知らされることがなかった。それは、検挙の翌年1942年6月16日・・・」

「この発表ののち、敗戦まで日本国民がゾルゲ事件についてふたたび聞くことはなかった。ゾルゲの刑死したのは、1944年11月7日、ロシア革命記念日であったが、その発表は行われなかった。・・・・」
とある。

戦時下の国民には、本当のことは何も知らされていなかった。「治安維持法」という稀代の悪法がどれほど罪なき人々を苦しめことか。
こんな権力犯罪は絶対に許されない。わずか70数年前のことだ。

青少年期にこの暗い社会を経験した手塚治虫は、だからこそ歴史の真実として、後世のために描き残そうとしたのだと痛感した。