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チャップリンLimelight                     生死の意味深さ

何回見ても、つくづく名作だと思う。

正直に言って、「よくもこんなに切ない映画を残してくれましたね!」と皮肉のひとこともチャップリンに言いたくなるような傑作だ。

やはり主人公のカルヴェロが死ぬことでしか完結しない話なのだろうと思う。
秘訣のひとつは、この作品を作ったチャップリン自身が人生の終末を意識せざるを得ない「老境」に入っていたこと、いまひとつは50年代からアメリカ社会に吹き荒れた、赤狩り「マッカーシズム」がチャップリンの創作活動を圧迫したことだと思う。

この映画でチャップリンは製作、監督、原作、脚本、音楽、主演の1人6役を務めた。文字通り手作りの作品で、これを最後にアメリカから「事実上の国外追放」をさせられたのだという。

しかし今日からみて、追いだされたチャップリンこそ本来のアメリカの理想を体現していたと言いたくなる。負けたのは当の「アメリカ社会」だと。

作品の舞台は第一次大戦直前のロンドン。
話の始まりは、たまたま同じアパートに住んでいる、自殺未遂を図った若いバレリーナ、テリーの不幸な境遇からだった。その彼女を親身になって介抱して助ける老喜劇役者カルヴェロ。

彼もまた、往年の栄光を失って、今やうらぶれた老境の独身生活。毎日のように酒びたりだ。たまたまの行き掛かり上ではあったけど、カルヴェロはテリーを介抱しながら、その不幸な生い立ちや、バレリーナなのに脚に障害を起こした事情を訊き、放ってはおけなくなった。

カルヴェロの励ましの言葉には、60年余りを生きてきたチャップリンの人生哲学が反映しているのだろうと思う。
映画にしては説教がましいという批判もあるらしいが、含蓄ある言葉として、虚心坦懐に受け止めれば良いのだろうと思う。

心臓疾患を持つカルヴェロには、もはやあまり未来はない。しかし、若いテリーにはまだまだ可能性がある。精神的に参っているだけだ。若いがゆえにall or nothingで極端に思い詰めてしまう。老いたカルヴェロにはそれが見えているのだろう。
若い彼女に性急な絶望に走らないでよいことを、なんとか分からせたい。
こうして社会の片隅で弱い立場の二人が、身を寄せ合って励ましあっていく過程に私たちは強く共感せざるを得ない。
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実姉の不幸に心痛め、自らの未来を儚んで落ち込んでいるテリー。
それが心理的原因で脚の自由を失ったのだった。

場面は変わって、今度は舞台でまったく喝采をとれず、失意のうちにカルヴェロが帰って来た。すでに時代遅れの芸なのだろう。

テーブルにうつ伏せて「もう終わりだ!!」と弱音を吐くカルヴェロを目の当たりに、我知らず彼女は励ましていたのだ。
ここで、それまでとは役割の位置が逆転する。

Are you, Calvero, going to allow one performance to destroy you? Of course not! You’re too great an artist. Now’s the time to show them what you’re made of. Time to fight!
「あなたはカルヴェロでしょ! バカな事を!  カルヴェロが1回の舞台で、しっぽをまくの?  貴方は偉大な芸人よ ! 今こそあなたの芸を見せる時よ。 戦うのよ!」
それはつい先日、自殺を図ったテリーを励ましたときのカルヴェロの言葉でもあったのだ。

Remember what you told me,standing there by that window? Remember what you said? About the power of the universe moving the earth? Growing the trees, and that power being within you? Now is the time to use that power, and to fight!
「窓の所で私に何といったの?  覚えているでしょ ! 地球を動かす宇宙の力のことよ!木々を育てるパワー。その力があなたの中にあるはずよ ! 今こそ、その力を使う時よ! 戦うのよ…」
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その時、あれほど動かないと思い込んでいた脚で、思わずテリーは立っていたのだ。

不思議なことに、これがきっかけでテリーは劇的に回復してゆく。

人が人を励ますという行為が不思議な効果を励ます当人に発揮することが確かにあるのだ。
他者を励ますことが、ほかならぬ自らの蘇生回復に直結する。だから人は孤立してはいけないのだろう。

「このひとを立ち上がらせたい」という純粋で一途な情熱が、かえって自らを奮起させる。お互い神ならぬ身、不完全な人間どうしだが、互いに励ましあって苦難を乗り越えてゆく姿がとても感動的だ。

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苦境にあったテリーを励ます言葉の中でカルヴェロは、すべての人間の内側に宇宙の力が秘められているという。そのパワーへの自覚と発揮をテリーに諭したのだった。
これこそチャップリンの大切なメッセージなのだろう。
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それはカルヴェロのテリーに対する愛情ではあるけど、テリーが期待したような、この世で夫婦の絆に発展する類のものではない。
そのことを、先のないカルヴェロは痛切に知っている。
つまり、まだ若いテリーは、親子ほども年の差のあるカルヴェロとの励ましあいが、愛情として結実するのだと早合点してしまっているのだ。

それをテリーに解らせるのはつらいことなので、カルヴェロ自らがテリーの前を去るしかない。一緒にいればテリーの純真がカルヴェロを苦しめることにもなる。
テリーが見事な「再起」を遂げると、去り時を感じたカルヴェロは彼女の前から消える。その諦念は、まさにテリーを愛しているからこそだったと言える。

やがてロンドン1の劇場のプリマになったテリーは、しがない大道芸人に身をやつしたカルヴェロをあるとき偶然捜し出した。そして彼の復活のために劇場オーナーに掛け合って、 とうとう出番を勝ち取る。
おかげでカルヴェロは最後の大演技を披露する機会を得たのだ。 この場面で、チャプリンは往年のライバル、バスター・キートンとの最初にして最後という、映画史上に残る大共演を演じて見せた。

かくして、見事に成功した舞台、観客は往年の喜劇王の復活を心から喝采する。その直後の出し物がプリマ、テリーのバレエ。

この世でたった一回、二人は舞台を共にすることができた。終わりが近い。
バレエのテーマ曲は、あの切なくて感傷的なライムライトのメロディー。それが哀切な大団円を奏でるのだ。

テリーは気づいていないが、それはカルヴェロの「最後の灯」を演出することになった。 かつての喜劇王カルヴェロの「Limelight」は、プリマ・テリーの前座での道化を「この世の見納め」に演ずることとなったのだった。
実に見事な構成だと思う。

そうとは知らず無心に踊るテリー。舞台袖には白布に覆われたカルヴェロの亡骸がある・・・・。踊っているテリーはまだ気づいていない。死因は心臓発作だった。
津波のような悲しみが観る者の胸を襲うのだ・・・・・。

このシーンは何回見ても正直、感動で胸を締め付けられる 。

強い悲しみの中で、私たちは人の「生と死」という普遍的なテーマをしかと魂に感じ取るのではないかと思う。「死」を目前にしたカルヴェロの最後の仕事が、 テリーを「生かす」ことにあったのだろう。予め自覚していたわけではないが、カルヴェロの「死」がテリーの「生」に連結するのだ。ふたりの哀歓を通してとても深い「生死の意味」を教えていると思う。

そして、平凡な人生であっても見事な「生死」を演じきってあの世に旅立つ場合が、私たちの身の回りにもきっとあるのだろうと思う。

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無心に踊るテリーの後背にはカルヴェロの亡骸が・・・・
考えてみると、チャップリンの到達点はとても「宗教的」であることに気づいた。

カルヴェロの死んだ後の話は映画では何も語られていない。観客の一人として、どうしても気になるのだけど、このあと彼女に思いを寄せるピアニストと結ばれるのだろうか。

貧しいピアニストが、なけなしの小銭を握って五線譜を買いに来るたびに、店番をしていた彼女は釣り銭や商品を黙って多い目に渡してあげていたのだ。その青年は今や成功して、彼女を妻に迎え入れたいと望んでいる。

心憎いことに、この青年ピアニストの役をチャップリンは実の息子にさせているのだ。これも考えてみると、とても深い意味があるのではないかと感じるのは私の「穿ち過ぎ」だろうか。
ともあれ、チャップリンが「喜劇王」である所以は、今どきの「お笑い芸人」との本質的な違いにあると思う。大衆の劣情におもねるだけのナンセンスなギャグが、いかに社会を毒しているか。
チャプリンには社会の不条理を暴く鋭いメッセージ性があった。だからその作品が歴史に残るのだろう。