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「ローッキード事件」(9) 弁護側の主張

 この裁判について、最近は生誕百年を迎えた「田中角栄ブーム」とやらで見直しを主張する論調が目に付く。その嚆矢に当たるものは
「田中角栄の真実」(弘文堂 平成12年<2000年>刊 田中喜助著)などだろうと思われる。
著者は昭和3年生まれの弁護士で
「私はこのロッキード事件で田中元総理と榎本敏夫元秘書官の弁護人として、最初から最後まで関与した一人である。」(「はじめに」 ⅲページ)という。
当事者の主張であるところが注目される。

そのなかで、当時から様々な議論を巻き起こしてきた「嘱託尋問」についてとり上げてみたい。

著者は言う
「これを外国の裁判所に対して行う規定はわが国の刑訴法にはない。したがって外国裁判所に対して嘱託して証人尋問すること自体が違法なのに、この事件の場合は、形は東京地検の検事が東京地裁の裁判官にコーチャンらの証人尋問を請求し、東京地裁から司法・外交ルートを経由して実際には米国の裁判官に証人尋問をしてもらうという方法をとったのである。」(同16ページ)が、
「その際に『コーチャンらがもし黙秘権を行使して証言を拒んだ場合であっても、同人らに対し「起訴しない」という約束をして証言させるように』と付け加えたのである。」(同)
こんな手法は、わが国の刑訴法には根拠がないので、まったく違法なのだという。根本的な疑問だ。

 この「起訴しないという約束」について、当時米国には(イミュニティ=刑事免責)があったが、日本にはそんな制度はなかった。さらにその「刑事免責」のうち、「起訴免責」(=証人を処罰できなくなるもの)を日本の「検察官の起訴猶予権限を悪用して」不当に拡張正当化したものだという(16-17ページ)。
だとすると、コーチャンらの証言をとりたいので、違法に根拠のない免責を与えたことになる。私のような素人が考えても確かに強引な印象は残る。

 しかし本来は「この事件のように贈賄の主犯に刑事免責を与え、証言させて相手方を検挙するようなことはイミュニティの制度趣旨から考えて許されない」(同17ページ)うえに、
「この種の証言を確保したいならば、被疑者やその弁護人を立ち会わせ、反対尋問権を行使させる機会を与える必要があったにもかかわらず、ロッキード事件の場合にはこのような配慮は全くしなかった」(同17ページ)
いわば田中角栄被告への一方的な狙い撃ちのような手法であったという。はじめから結論の決まった違法な出来レースだというのだ。嘱託尋問という法廷闘争なのに、免責を与えられたコーチャン証言への被疑者や弁護側反論はそもそも認められていない。確かに不公平に見える。

「嘱託を受けた東京地裁の裁判官は本来なら、チェック機能を果たしてこういう違法な嘱託請求は却下すべきであった。ところが当時の世論なるものに押されたためか、チェックせずにそのまま米国の裁判所に再嘱託を行」(同17ページ)ったものだという。

この「世論」なるものの曲者ぶりも見逃せない。「提灯行列」まで行われた津波のようなうねりを横目に、ともかく「田中角栄逮捕ありき」で突っ込んだのだろうか。

結局のところ
「本来このような違法捜査をチェックすべき責務を負う裁判所までがこれを怠ったのであるから、田中元総理有罪に向けてエキサイトしていた当時の世論に影響され、裁判所までがオーバーヒートし、冷静な判断力を失ってしまっていたのではないかと言わざるを得ない」(同18ページ)と論難している。

しかも、当時の日本司法にイミュニティ(刑事免責)制度がないことを知っている米国地裁の裁判官の求めに応じて、日本の「最高裁裁判官は、全員一致した名高い『宣明書』によって『裁判官は不起訴を約束しているから将来にわたりコーチャンらが起訴されることはないことを宣明する』旨を内外に表明して、ようやく証言調書を入手したのである」(同18ページ)
これまた前代未聞の最高裁「宣明書」が堂々と発せられたものだ。

という次第で、検察の求めに応じ裁判所や外交当局すらも水際立った連携協力、後の言葉で言えば「国策捜査」まがいの構えが短期間で(時効に間に合わせるために)執行されたことになる。しかもやすやすと国境を越えている。

 アメリカから発した事件の発端は76年2月、日本側には寝耳に水の大騒ぎを起こしたが、そのわずか5ヶ月後の同年7月末には田中スピード逮捕に至った。受託収賄の時効が8月に迫っていたからだ。
国民の憤激を政権批判の追い風にした野党の追求は世論に便乗した格好。いっぽう、自民党内で政権基盤の弱い三木首相にとっては、真相解明の大義名分が結果的に権力維持に利用できるという思惑もあったのだろう。これに対して田中陣営は三木おろしに躍起となったという。保守主流派も「高官名」が露呈することを畏れ、中曽根(元)幹事長などはMOMIKESHIを米当局に依頼したという。首相と与党幹事長で正反対の動きに出ていたことにもなる。アメリカ側からみて日本の政局は混乱の極みだったことだろう。

こうした「騒動」のなかで元首相逮捕というドラマが盛りの頂点を極めたが、その間に当初は本線だと思われた「児玉ルート」は霞んでしまった。そのことに自覚的なマスコミ人も少数ながらいたようだが、その声は書き消えてしまった。

この最高裁の『宣明書』というお墨付きの権威が効奏したのか下級審の一、二審の裁判所はコーチャンらの調書を有罪認定の最有力な証拠とした。
「ところが起訴から実に十九年間を経た前記最高裁の判決(95年)は、さすがに刑訴法・憲法の趣旨に則り、刑事免責の約束をした点をとり上げてコーチャンらの嘱託尋問調書を違法収集証拠として証拠排除の決定をした。つまりコーチャンらの証言を有罪の証拠としてはならないと決定したのである。・・・・この判決の中で大野裁判官は『本件においては、証人尋問を嘱託した当初から被告人、弁護人の反対尋問の機会を一切否定する結果となることが予測されていたのであるから、そのような嘱託証人手続きによって得られた供述を事実認定の証拠とすることは、伝聞証拠禁止の例外規定に該当するか否か以前の問題であって、刑訴法一条の精神に反する』と述べている。正にそのとおりである。」(同19ページ)
刑訴法一条
「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」

まさにどんでん返しなのだが、それにもかかわらず、このとき最高裁は上告を棄却した。

著者は言う
「(最高裁)がそこまで判断したのならば、被告人を無罪にすべきであった」
素人目にも判断した根拠に薄弱感は免れないのだが、
「コーチャンらの証言を排除しても『その他の証拠』で有罪とし得る」
というのが有罪判決理由だった。
このときすでに田中元首相は死去(93年12月)していて、檜山元丸紅会長、榎本元秘書官への有罪確定という結末に終わったのだった。

しかし著者によれば、「その他の証拠」といっても、それは本体のコーチャン証言から導き出された枝葉なのであって本体が証拠にならないのなら、原審に戻して再審理すべきであったという。

 この主張は確かにそれなりに説得力があって、看過できない大きな論点に見える。私のように法律に疎い素人は同著だけを読むと「ひょっとしたら田中角栄元首相は無罪だったかもしれない」などと早合点しかねない。

ところで本著の「あとがき」では、
「私自身は田中角栄先生の無罪を確信しているので、知、情、意を兼ね備え、百年に一人といわれる政治家のこの裁判における真実を伝えたいという思いから、何らかの形でまとめてみることを決意した。そうなると有罪判決を受けたくやしさ、むなしさがよみがえり、田中先生のお人柄の一端も合わせて、田中裁判の事実問題、職務権限、証拠の収集、採否、評価等の問題を取り上げてみようと考えたのである。」(同あとがき 233ページ)
という具合で、法律家にしてはかなり感情移入した筆致になっていて、その分かえってひっかかる。被告人の生前に無罪を勝ち取れなかった弁護人の無念さからか、やや冷静さを欠くのではないかと皮肉りたくなるような読者もあるかもしれない。

しかし、私は「百年に一人といわれる政治家」かどうかは知らないが、田中角栄元首相はおそらく強い魅力を備えた多面的な人物だったのだろうと想像する。いわゆる「立志伝中」の生い立ち、33本もの議員立法を実現した議員としての実績、日中国交回復などの外交業績から前代未聞の大派閥形成、人情を知悉したお金の使い方まで含めて、やはりずば抜けた力量がなければできなかったことだろう。東京ばかりに「人、モノ、カネ」が集まる国土の不均衡を改革しようとした意図もあったのではないだろうか。
演説もうまいと思う。何より「愛嬌」がある。これは単純に良し悪しを決めつけて済ませられないのではないだろうか。
今どきの政治家があまりに「小粒」で貧相に見えるからかもしれないが。

弁護人となり、その挨拶がてらに訪れた東京拘置所での初対面からの印象をこう綴っている
「田中先生は『そうですか。よろしくお願いします。今後一生のおつきあいをお願いします』と丁寧なご挨拶とともに握手をお求めになられ、恐縮した。この時はさすがに総理大臣にまでなった人は、心身ともにすごいものがあるなという感じをもったが、その後長い間弁護人として接するうちに、総理の識見の高さ、理解の早さ、知識の豊かさ、記憶力の良さ、人情の深さなどに魅せられるようになった。」(同26ページ)
という記述は嘘ではないだろうと思う。直接体験が響いている。

 こう回顧する著者が、いとも簡単に人にだまされるようなナイーブなひとだった、などということではないのだろうと思う。

事件の関係者とは何の面識もなく裁判の詳細も知らないので断言はできないが、マスコミ報道(それも一端だけ)で形作られた田中元首相の印象しか私にはなかった。
いやしくも一国の総理大臣でありながらその職務権限を悪用して外国企業から五億円もの賄賂を受け取ったとんでもない悪徳政治家という印象が世間には「定着」してきた。ロッキード事件後は政界の裏側で表の政治を壟断する「闇将軍」とか「キング・メーカー」とかいう悪印象も繰り返し報道された。
しかしそれは自分で直接確認したわけではない。その手段もない。ほとんどがマスコミからの「受け売り」の情報だ。

つましい暮らしの庶民感覚では想像もつかないような巨額の金品を、政界で動かす典型的な「金権政治家」だという印象が前提にあった。庶民には高嶺の花というべき都内の豪邸に住み、庭で大きな錦鯉に餌を振りまく映像が何回も流れ、そのイメージを増幅した。ゲスの勘ぐりかもしれないが、本当に一代で正当に築いた資産なのだろうかと、素朴な疑問が生じかねない。そういう「効果」を計算した絵柄でもあっただろう。印象操作の「効果」は否定できない。

しかし著者によると、だからこそ裁判は
「マスコミによって作り上げられた巨大な世論に押しつぶされた」結果(「はじめに」 ⅳページ)のだと断言してはばからない。

確かに、マスコミ報道がどれだけ「真相」を伝えているのかどうか、ときに漠然たる疑問を感じた事例は他にも多い。
それに「真実」と「事実」も違うだろう。事実を組み合わせて異なった印象を与える操作を施す技術もあり得る。
人智の悪辣さははかりしれない。

法と証拠に基づいた冷静かつ合理的な弁証の場であるべき裁判もロッキード事件の場合、あれだけ沸騰した法廷外の世論やマスコミの動向が裁判の合理性を歪めなかったと言い切れるだろうか。

また、そもそも日本の司法が厳密な「三権分立」規定に立脚した「独立性」を確保しているのかどうか、あまり信頼が持てない。しばしば行政府に「忖度」しているようにすら見えることはないだろうか。「高度に政治的な判断」などという言葉には、言い逃れを感じないだろうか。

テレビや新聞、雑誌が当局者の意図に沿って世論を誘導することもあるのだろうと思う。一番の曲者はよく耳にする「関係者によると」などという枕詞でもって様々な情報を流すときの「関係者」。誰だか身元不明だ。
こういう手法は明らかに「世論操作」に都合よい。治安当局も自分に都合よく情報を流すらしい。

私も含め大衆も大勢の赴くところ偏った感情に流されやすいものだろう。マスコミの情報は、一方的なベクトルと圧倒的な物量で津波のように押し寄せてくる。人びとは取捨選択の余地もないくらいの「激流」に晒されている。それでなくても自分のことで手一杯の人生なのだから。

しかし、最近はかつて確定した裁判も再審が認められて、昔なら泣寝入りで終わっていたような「冤罪」もよく目にするようになった。「裁判が『真実』をすべて明らかにする」などという期待は本来ナイーブに過ぎるのかもしれない。

だから、ときの最高裁といえども
「マスコミによって作り上げられた巨大な世論に押しつぶされた」ということがあり得るのだろうか。
いずれにせよ、「ロッキード裁判」は中途半端な結末だったように思える。

ここは慎重に吟味すべきだと感じた。