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「方丈記私記」を読む(6)    無常観の政治化

「人民の側において、かくまでの災殃をうけ、しかもそれは天災などではまったくなくて、あくまで人災であり、明瞭に支配者の決定にもとづいて、たとえ人民の側の同意があったとしても、政治には結果責任というものがある筈であった。・・・・けれども、人民の側において、かくまでの災殃をうけ、なおかつかくまでの優情があるとすれば、日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったにしても、この、といまのことばを援用して言えば、体制は維持されるであろう、と私にしても、何程かはヤケクソに考えざるをえなかったのであった。・・・・」(ちくま文庫「方丈記私記」1988年65ページ)
この著者に特有の回りくどい表現なのだが、何を言いたいのか私なりに解釈すると・・・・・要するに、いま眼前にしている東京大空襲のような痛ましい戦争の惨禍を招いた政治的責任は、天皇とその側近にある。だから、その支配体制を転覆(国体の打倒)をすることで日本の将来展望を描けるかもしれない、と若い堀田善衛は淡い期待をしたものの、日本という国の宿痾はそんな安直な輸入思想(英訳「レーニン」)などでは、ほとんど歯が立ちそうもないのだということ。失政の被害者であるはずの人民の側に、権力者へのあまりにもやさしい従順さ・・・・つまりは飼いならされた「優情」が存するというのだ。

これは21世紀の今でも、「〇〇弌1強」などと称されるような、はなはだ不可解な政治がズルズルとけじめもなく続いている状況を思い起こすと、なるほどそんな「伝統」もあるような気もする。

「優情」とは、わかりにく概念なのだが、私なりに解釈すると、政治権力の責任性を論理的に鋭く問おうとしない、とても隷属的な態度、いわば湿った情緒みたいなものになるのだろう。確かに日本人は何かと「親方日の丸」の姿勢が強い。最近流行りの「忖度」などという翻訳不能の言葉もそのひとつの表れではないだろうか。
それはともかく大勢に合わせることを優先する。だから、その場その場で自分を使い分けるための「一人称」がやたら多い。
私、僕、俺、某、拙者、手前などなど・・・。それぞれのニュアンスの違いは自分を取り巻く環境との関係性に依る。

著者の言葉で言えば「人民の側において、かくまでの災殃をうけ、なおかつかくまでの優情がある」日本人の性質に直面して、どうしようもないもどかしさを痛感したのだろう。
それが、あの空襲直後の焼け跡で目撃した場面への感想だった。

この人民の天皇に対する「臣民としての優情」もまた、高橋和巳が「邪宗門」で指摘したように
「天皇制を支える神道理念は、先端まで行ったところで、ふわっと、農村の自然崇拝とその日々の感情生活へと解体される」
と指摘したことに響き合うのではないだろうか。
「人民の昭和天皇への優情」・・・・しかしそうした感情メカニズムは、戦後生まれの私にはやはり、実感が乏しい。むしろ「異様」ですらある。世代の差だろうか。
本当にそんな「伝統」などあるのだろうか、という素朴な疑問が涌くが、ひとまず疑問は後に残して先に読み進もう。

いずれにせよ、これは昭和20年3月、東京大空襲の酸鼻を極めた焼け跡で垣間見た、天皇と人民の出会いの絵柄を目撃した堀田善衛を本当に驚かせ、かつ「何程かはヤケクソに考え」ざるを得ないような諦めをもたらしてしまったのだろう。

だから、愚かな戦争を起こした 「責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こりうるのか!」
という、やり場のない怒りや煩悶が起きたのだった。

これらのまことに「奇怪な」日本的伝統は
「敢えて言えば、われわれにとって、いわば骨がらみというところまで行っているのであって、すなわち私たちの存在自体の根源にまで食いこまれているのである。」(68-9ページ)
「やはりわれわれの思想生活の根源に生きて横たわっているものを、ともにえぐりだして見る必要はあろう。」(68ページ)

そうでないと、
「日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、上から下までの全体が難民と、たとえなったにしても・・・・体制は維持されるであろう」
ということになってしまう。レーニン流に言えば、いつまでたっても人民は虐げられ、前近代的な支配体制は保守される。いわゆる「階級闘争史観」など、まるで歯が立たない話なのだ。

そうだと仮定すると、日本の「伝統」的本質は戦争に負けても一向に揺るぎなく、この島国のムラ社会の「政治」というものは、まるで季節に合わせて衣替えするだけのような、本質的には何も変わらぬ構造が続くだけということになる。戦後日本をどう見るかは人それぞれ意見があると思うが、堀田流に言えば、今もなお「生ではなくて、死が人間の中軸に居据るような具合にさせて来たもの」は、岩盤のごとくしぶとく生き残ったということになるのだろう。

つまり、知ったかぶりで「天皇制」をあげつらってみても、たちまち論点がぼけて不毛な空理空論に堕してしまいかねないような、圧倒的に根強い「伝統」の壁がそびえていて、それは「やはりわれわれの思想生活の根源に生きて横たわっている」。
その原因は
「・・・・言ってみてもはじまりはせぬ、ということ自体、すでに俗無常論そのものによって私もまた侵蝕されている」(68ページ)からなのだ。
ここで「俗論の無常論」と表現しているのだが、 その意味はどう理解すべきだろうか。
想像するに、論理で突き詰めた「無常」という概念ではなくて、ある種の、情緒的な「諦め感情」みたいなものではないだろうか。つまり、思想ではなくて「心情」に近いものなのだろう。これは、輸入ものの合理主義思想の翻訳などでは到底歯が立たない。日本人の心を根深く染めっている「感情」だからこそやっかいなのだ。輸入ものの合理主義思想の翻訳などでは到底歯が立たない。日本人の心を根深く染めあげている「感情」だからこそやっかいなのだ。

「この無常観の政治化されたものは、とりわけて政治がもたらした災殃に際して、支配者の側によっても、また災殃をもたらされた人民の側としても、そのもって行きどころのない尻ぬぐいに、まことにフルに活用されてきたものであった」(67ページ)

こうした「無常観」は正確に表現すれば「無情感」に近い感情であって、日本人の政治意識の底辺に巣食い、鴨長明の中世からこのかたずっと既存の政治制度を支えてきた、ということになる。

空襲下の零細な電力事情の中で、ほそぼそと「方丈記」や「英訳レーニン」を読解していた堀田善衛青年の日本文化への絶望なのであろうと思う。

それゆえに、堀田が指摘したような、戦争責任のある人々やその子孫が、敗戦後もなお権力の中枢に平然と復活鎮座していても、なんら痛痒を感じない・・・・・・そういう、政治的にけじめの無い政治風土(=ある種の「ムラ社会」)が今も連綿として続いているのだ、ということになるのではないだろうか。
善悪是非を論理的に問うことなく、まるでカメレオンのようにその時々の環境に合わせ(=和の精神)て生きてゆける「ムラ社会」であれば、ある面でこれほどに居心地の良い共同体はないのかもしれない。「個」を主張するような人は「変人」扱いされるだろう。

逆に言えば、戦争と軍備を否定した憲法下で、「戦力なき軍隊」などという意味不明の説明でもって明らかな戦争の道具=「戦備」を「防衛力」と言い換えて平然と蓄えることに、何の痛痒も感じない精神構造なのだ。しかも、三権分立で本来は法の精神を合理的に厳しく律するはずの最高裁ですら、なにやかやと智慧を尽くして=屁理屈をこねて=ひたすら現状を追認することに終始している。
素直に憲法を読んでみると、どうも条文にそぐわないおかしな現実ばっかりなのに、まるで牛の涎のようにけじめのない「違憲状態」が続いているように見えないだろうか。この「ムラなか」では右であれ左であれ、疑問の声をあげる日本人は「変人扱い」されかねないではないか。

これを脱却しようとすれば、
「私は長明氏の心事を理解し、彼の身のそばに添ってみようとしてこれ[『方丈記私記』を書いているのだが、同時に私は長明の否定者でもありたいと思っているのである。けれども、この現代においてすら、彼の死後七百五十年以上もへた現代においてすら、長明の否定者であるためには、われわれの全歴史の否定者でもあらねばならぬという至難の条件がともなっているのである」(166-7ページ)
という、ほとんど実現不能な難事になってしまう。

これは確かに手に余る事態であって、それほどまでに根深い日本の「業」を眼の前にして27歳のインテリ青年・堀田は「何程かはヤケクソに考えざるをえなかった」という文脈なのだろう。

だから、長明の言う
「羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ」
「世にしたがへば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる技をしてか、しばしもこの身を宿し、ためゆらも心を休むべき」
と、長大息にも似た諦念は、日本的に俗化された「無常観」=情緒に過ぎないのだが、それはすでに800年前からずっと(支配する側も支配される側にも)「そのもって行きどころのない尻ぬぐい」として政治的に利用されて来た。
そして、明治以来の近代日本帝国主義の必然たる「全的崩壊」(=そのひとつの現実が「東京大空襲」であった)を経験しても、なおかつ微動だにせず、この島国の「ムラ社会」の営みの底流に蟠踞し続けているのだと堀田は察知したのだ。

そして
「・・・・人々のこの優しさが体制の基礎となっているとしたら、政治においての結果責任もへったくれもないのであって、それは政治であって同時に政治ではないということになるであろう。政治であって同時に政治ではないという政治ほどにも厄介なものはない筈である。このケジメというもののない厄介きわまりのないものの解明に、おそらくは日本の政治学はその全力を注いでいるものであろうと、私など門外漢は推察をするだけである。・・・・」(65-6ページ)
と、急に政治学に問題を投げ出す。

こう考えると、戦前と戦後の歴史上の「境界線」などは便宜的な上っ面の区分けに過ぎないともいえる。

この思考回路が
「・・・・戦時中に、私がはじめたわけでもない戦争によって殺されるかもしれぬことを思うとき、・・・・歴史を捨象する以外に、私には法がなかったのだ。あの戦争をおっぱじめたものは、天皇とそのとりまきであることほどに明らかなことはないであろう。それを人民一般が支持したか否かは別の問題である。そうして、歴史を捨象するとは、自己自らを運命と見做すことであり、・・・・おそらく、現在の若者たちからは、そういう自己救済は、汚らしい、と難ぜられるものであろう。しかし、そう言う若者たちもまた、我々の『日本』の業の深さを知りはしないものである。・・・・」(ちくま文庫「方丈記私記」1988年 232ページ)
という、70年代前後の著者の感慨になるのだと思う。

この意見をそのまま鵜呑みするわけではないが、ひとまずは謙虚に読み解いてみよう。
あの未曾有の敗戦に出くわした戦中派の思想的な苦闘が、そのまま回りくどく読みにくい表現になっているのだろうと、それこそ「優情」を寄せて。