カテゴリー
映画 歴史

映画「東京物語」(6)・・・世の中って嫌なことばかり

とみ(東山千栄子)の葬儀は、はしなくも尾道の平山家がすでに緩慢な「崩壊過程」に入っていたことを顕わにしてゆく。

家族だけの精進落としが終わる間もなく、長男、長女、そして独身の三男も、それぞれの仕事や生活があって、そそくさと帰ると言い出した。故郷ではあるものの、尾道はすでに彼らの長居するところではなかったのだ。
だがその態度は、親と同居している末娘の京子から見れば、実母が亡くなったばかりなのに、あまりに薄情だと思われた。
結局、次男昌二の嫁・紀子(原節子)だけが、義理姉(杉村春子)の指図で葬儀の後始末のために残った。
上京した両親のおもりを頼まれたときと同じ構図だ。

しかも紀子は、言葉使いからして東京の人なのだろう。言うまでもなく、もともとは尾道の平山家にとって「他人」だ。

紀子のアパートを訪ねる
紀子のアパートを訪ねる

新幹線もない1953年(昭和28年)当時、子や孫を訪ねて老いた舅姑が上京する行程は、はるばる一日半もかかった。
東京の紀子のアパートの慎ましい部屋には、八年前に戦死した次男昌二の遺影がささやかに飾ってあった。

やがて老夫婦二人のささやかな期待は子どもたちの現実を前に裏切られることとなったが、意外なことに嫁の紀子が、義理の両親をいちばん真心からもてなしてくれた。それは実の子供たちに比べても、「嫁の務め」を超えた心使いに思えた。

なぜなら実子の長男長女は自分たちの生活や仕事に精一杯で、充分なもてなしができないどころか、両親を持て余している風情ですらある。

長男の自宅兼医院
長男の自宅兼医院

彼らはすでに東京に長く住まい、生活の基盤を構えているから、もう尾道に帰ってくることはないだろう。三男敬三も大阪の国鉄(現JR)で働いているが、尾道に帰ってきて所帯を持つかどうかはわからない。
老い先短い夫婦は、まだ若い寡婦・紀子の行く末だけが心残り。
紀子には、できればもう平山家に気兼ねせず再婚して欲しい。
思いあまってそう申し出たとみに、紀子はとっさに正面から応えられなかった。核心を衝いていたからだ。

そして、そのとみが帰省直後に急逝したのだった。
これも運命の悪戯か、紀子のアパートでの話が「遺言」になってしまった。

尾道への帰省列車で、とみが気分を悪くして途中大阪で下車し宿泊した、三男敬三の部屋。
旅を振り返って、二人が本音を交わす。

「・・・・でも、こどもも大きゅうなると変わるもんじゃのう。志げもこどもの時分はもっとやさしい子じゃったじゃにゃあか。女の子は嫁にやったらおしまいじゃ。」
と、周吉(笠智衆)。
熱海から帰ったときの志げ(杉村春子)の剣幕を思い出した。

「幸一も変わりゃんしたよ。もっと優しい子でしたがのう。」
とみも、長男幸一が両親を持て余していたことをちゃんと見抜いている。
父は愛娘の冷たさを、母は愛息の薄情を吐露している。

「なかなか親の思うようにはいかないもんじゃ━━欲云やぁ切りにやぁが、まあええ方じゃよ。」
と、周吉。
これにとみが
「ええほうですとも、よっぽどええ方でさぁ。私らは幸せでさぁ。」
と相槌を打つと
「そうじゃのぉ、まぁ幸せなほうじゃのう。」
と周吉が合わせているが、本当のところ、表面を取り繕ったに過ぎないことを互いに察知しているところが寂しい。

老夫婦の晩節に底知れぬ悲哀感が漂う・・・・いったい「家族」とはなんだったんだろうか。ここに私は戦後の核家族化、東京一極集中が人びとにもたらした酷薄な側面を読み取ることができるような気がする。なぜなら、私自身もまぎれもなくその一人(都市に住む地方出身者)だった。確かに高度経済成長を果たし、便利な都市生活が実現したが、これで良かったと断言できるだろうか。
もちろん、近くに住んでいても昔ながらの大家族が維持されたかどうかはわからない。それぞれの家庭の事情も多様だろう。

映画ではこれが平山夫婦して子供たちを話題にした、最後の会話であったことに悲劇がある。

尾道で同居している末娘の京子(香川京子)は、地元小学校の先生になったばかりの23歳。長男長女とはかなり歳の開きがあるから、母を失ったあとの兄姉たちの割り切り方が納得できないでいる。

数日後、後始末も一通り終わったのだろう、いよいよ帰京する紀子に、それまで我慢していた兄姉への不満を漏らす。

「・・・でもよかった。今日までお姉さんにいていただいて 。お兄さんも姉さんも、もう少しおってくれても良かったと思ったわ。」
「みなさんお忙しいのよ」
「でもずいぶん勝ってよ。言いたいことだけ言うて、さっさと帰ってしまうんですもの・・・・・自分勝手なんよ・・・・お母さんがなくなるとすぐお形見ほしいなんて、あたしお母さんの気持ち考えたら、とても悲しうなったわ。他人どうしでももっと温かいわ。親子ってそんなものじゃないと思う。」
と、強い不信感を打明けた。

FilmArchiveParagraph1006imageja

これに対して紀子は、自分の経験を踏まえて優しく諭している。
「・・・・わたしもあなたぐらいのときには、そう思っていたのよ。でも、子供って大きくなるとだんだん親から離れていくもんじゃないかしら。お姉さまぐらいになると、もうお父様やお母様とは別のお姉さまだけの生活ってものがあるのよ。・・・・・誰だってみんな自分の生活が一番大事になってくるのよ。」
あくまで一般論で諭している。

しかし親と同居している未婚の京子には、どうしても腑に落ちない。
「・・・そうかしら、でもあたし、そんなふうになりたくない。それじゃ、親子なんてずいぶんつまらない。」
「そうねぇ。でもみんな、そうなってくんじゃないかしら。だんだんそうなるのよ。」
「じゃ、お姉さんも?」
「ええ、なりたかないけど、やっぱりそうなっていくわよ。」
「嫌ぁねぇ、世の中って。」
「そう、嫌なことばっかり。」

この紀子のセリフには、ぞっとするほど重い厭世観が込められているというほかない。小津監督や脚本家野田高梧自身の「諦観」が滲み出ているのだろうか。多くの観客の共感を呼んだのだろう。
とすれば、それは家族を通して誰しも免れ得ない「人生の悲哀」をも言い当てているのだろうか。とともに、戦後日本の社会変化が、必ずしも「家族」を幸福にしたとは言えない現実を言い当ててはいないだろうか。それは家族が拡散し分断された過程でもあった。明治生まれの祖父母から大正(父母)、昭和(私の世代)と生きた私の家族もまた、そのひとつだったと気づかされる。

京子は実の兄、姉が親に対して余りに人情がないと非難しているのだが、紀子は京子を慰めながら、実は「人生の不条理」を語っているのだと思う。
それは親子だけの話ではない。
その言葉には戦争に夫を奪われ、時代の激変に取り残さた(戦争未亡人)紀子自身の人生が投影されている。

だからこそ
「嫌ぁねぇ、世の中って。」京子
「そう、嫌なことばっかり。」紀子
と話を締めくくるのだろう。

「戦争未亡人」は軍国主義の時代にあっては表向きは「名誉」ですらあった。だから、こんなバカげたことがまかり通った日本社会の欺瞞性もあぶり出したのだと思う。結果、敗戦後のせちがらい東京で八年の間一人生きてきた、紀子の重い実感が吐露されているのだろう。
この映画の重要なテーマだと思う。

旧来の家族制度に合わせて嫁の「操」を演じてきた紀子の、敗戦を境とした深刻な自己矛盾が投影されているように思える。
義母との一夜、紀子はなかなか寝付かれなかった。戦争によって引き裂かれた戦中派世代の、「戦後」での生きづらさがよく表れていると思う。彼女も又、戦争の被害者なのだ。

「私たちの青春は戦争の犠牲だったのよ」
と、私の母は問わず語りによく言っていた。

こうして、「東京物語」は、戦中・戦後を生きた人間心理の深い機微を見事に描き出してゆく。
底流には嘆息にも似た無情感があると思う。