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「思い出のマーニー」(8)        「トムは真夜中の庭で」から

 ジョーン・G・ロビンソンの「思い出のマーニー」を読んで、心理学者である故河合隼雄氏の「たましいの世界」の解説を参考に、自分なりに拙い感想を綴ってみた。

もちろん、私には専門的な見解など披露できない。しかし、この世のことや人生を深く理解するためには、いわゆる「合理的」なアプローチだけでは不充分なのだろうという見当はついた。
むしろ、心と体に分別する以前の、「たましい」と氏が名付けるような深いレベルの精神世界があると仮定して、そこへ思いを致す態度、そして今見えている「現実」の枠組みだけですべてを結論づけるのではなく、ある種の「超越」へも心を開いてみることの必要性を学んだように思う。
行き詰まりを指摘されて久しい、近現代の合理的な思考様式や生き方を相対化する展望が開けるのかもしれない。(ただし「合理性」を単純に否定するのでもない。)

  還暦も過ぎた今頃になって、いまさら児童文学と思われるかもしれないが、眼の前の現実に追われて、ほとんど置き忘れてきた「たましい」は人生の「店じまい」をはじめるにあたり、再考すべき主要なテーマの一つだと思う。それに河合氏は、むしろ大人も読むべきだと主張する。磨滅した感性をなんとか少しでも蘇生したいものだ。このまま乾物のようにひからびて死ぬのはやはり惨めだ。

1967年に発表された「思い出のマーニー」は、同くイギリスの児童文学の代表作に数えられる58年発表のアン・フィリッパ・ピアス作『トムは真夜中の庭で』( 岩波少年文庫2000年  Tom’s Midnight Garden)に類似した構造が認められるという指摘があったので、参考に読んでみた。

トムは真夜中の庭で

この作品については、やはり河合隼雄氏が1987年「子どもの宇宙」(岩波新書)並びに「ファンタジーを読む 講談社+α文庫1996年」で興味い分析をほどこしている。

たとえば、「子どもの宇宙」では『Ⅳ「子どもと時空」』の章のなかで、以下のように指摘している。

「・・・・子どもたちは、この世の時空を超えた世界について非常によく知っている。大人はこの世のことにあまりにも縛られすぎている。大人は『忙しい』とよく言うけれど、それはこの世のはかなさを実感することを避けるために、忙しさのなかに逃げこんでしまっているのかもしれない。子どもたちの時空を超えた世界の体験は、われわれ大人にとっても教えられるところの大きいものである。この章では、時空を超えた世界の体験をした子どもたちについて考えてみることにしよう。児童文学はそのようなことに関する名作に満ちていて、どれを取りあげようかと迷うほどである。・・・・」(104ページ)
そして「1.時とは何か」という一章を設けて『トムは真夜中の庭で』を論じている。

(少し弁解めくが、『忙しい』『忙しい』と多忙を口実に人生の大事を逃げてきたわけでもないが、結果的に同じような始末になった今、徒労を承知で必死の抵抗を試みているのが当サイトの偽らざるホンネかもしれない。。。。。。)

・・・・・主人公のトムは、夏休みだというのに親元を離れて親戚のアランおじさん宅に預けられることになった。弟ピーターが「はしか」に罹ったので、その伝染を避けるためだった。
本当は兄弟で自宅の庭の木に登って思いっきり遊ぼうと思っていたのに、一人寂しく親戚で退屈な生活をしなくてはならない。

このお宅は今様に言えばいわゆる集合住宅で、庭がなかった。

「・・・・その家は昔の大邸宅をいくつかに区切ってアパートにしたもので、玄関をはいったところのホールには大きい古時計があった。この時計はまことに正確なのだが、時刻を知らせるために鳴る数だけが無茶苦茶で、5時だのに、ひとつだけ鳴ったりするのである。・・・・この古時計こそこの話全体のプロモーターなのであった。・・・・」(105ページ)
面白い時計もあったものだ。

ところが、
「・・・・トムがある夜、寝つかれずにいると、大時計が十三時を打つのである。これは大変なことだ。・・・・」(106ページ)
寝床の中で音を聞きながら数を読んでいたのだろう。
「・・・・大時計の告げる『とき』に従って、トムは下に降りてゆき、ホールの裏口をあけてみると、そこには思いがけない庭園がひろがっていた・・・・」(同)

あるはずのない不思議な庭なのだ。
ここからファンタジーの世界が開示されるのだ。

広々とした庭園は自然豊かな樹木と動物に溢れ、なんともいえぬ魅力があったので、トムはその風景に思わず引き込まれた。それ以来トムは深夜、アラン夫婦が寝静まるのをみ計らっては、こっそり庭に出て探索を始めたのだ。

ストーリーの詳細は省くが、物語は不思議な時空に入ったトムの冒険ファンタジーが展開される。この「とき」について氏は以下のように分析している。これが興味深い。

「・・・・誰にとっても一様に同じにすすんでゆく時間、それをこの時計の針は正確に捉えていた。しかし、人間にとってはもうひとつ別の時間がある。それは、それぞれの個人にとっての『とき』である。時計の針で一時間の長さが、ある人には一瞬のこととして感じられるたり、その逆のこともある。・・・・・この古時計は本当に意味深いものになってくる。針の動きで一様に進行する時間を告げつつ、片方では、ある『とき』を告げるために、音を鳴らすのである。・・・・」(106ページ)
河合氏の分析は詩的ですらある。
思うに、合理的な思考が堅牢であればあるほど、こうしたファンタジーの世界は遠のいてしまう。結果、実は草木も生えないような乾いた大地に私たちは立っているのかもしれない。

子どもの宇宙

確かに「時間」の本質は難問だ。
私自身、高校生の頃、通学途中の列車内でふと心に湧いた素朴な「時間」への疑問については、現代物理学の専門家の間でも意見が分かれているようで、いまだ結論が出ていない。むしろ、当面出そうもない。
時間の「正体」というものが、どうやら科学的に解明できていないのではないだろうか。うまく表現できないが「時間」を数値として把握するだけではなくて、もっと味のあるとらえ方はないだろうか。

 厳密に言えば、われわれが通常使っている「時間」は、人間が生活していくうえで必要に迫られて作成され了解された、いわば「仮の」統一基準に過ぎない。だからよく考えてみると、抽象的な概念だ。「グリニッジ標準時」なんて生活に必要な「取り決め」に過ぎない。普遍的に通用するために、個別性を捨てている。
でも、それで現実世界は画一され動いているのだから、誰しも「時間がある」と考えている。しかしそれは「顔」がない。いわば、のっぺらぼうなのだ。
「時間」を疑いだしたら切りがないが、そもそも見えないし手にもとれない。それを「実体のあるもの」だと高校生の頃に錯覚していたので、ふと疑うとわけがわからなくなってしまったのだろう。合理的に考えるということは、時間を一般抽象化するということなのだろう。そのとき具体性・個別性はなくなる。かくして見えないものへの配慮を失うのだ。

 自分を振り返って考えても、腕時計の刻みとは別に「腹時計」などというのも確かにある。毎日同じ時刻頃になると、どこにいてもちゃんと空腹を感ずる。まるで身体の中に別の「時間」軸があるかのようだ。子どもの頃は時間の歩みが遅くて「はやく大人になりたい」などと思ったものだが、社会人になって多忙な毎日に埋没しているうちに、それこそ「あっという間」に40年余りを経過してしまった。客観的な基準としての「物理的時間」とは別に、生活実感としての多様な「生命時間」があることはよくわかる。

 だから人間ひとりひとりにも、十人十色の「時間」が内在すると考えるほうがそれこそ「合理的」かもしれない。また、そのほうが内実のある世界が開けるのではないだろうか。
ニュートンの「絶対時間」を疑った相対性の時間概念のほうが、より宇宙の本質に近づいた世界観を開示したことに似ている。

そして興味深いことに、ある鋭敏な人には「こちら」の現実世界とはまるで次元の異なった流れの世界=ファンタジーの時空へと扉が開くようなのだ。

 やがてトムは不思議な花園で出会った少女「ハティ」と仲良くなり、一緒に遊んでとても楽しい「時」をおくる。面白いことに庭に出るたびに、それぞれ別の時間を生きるハティーに出会う。そして最後にはその謎が解かれることとなる。

「ハティ」は、なんとこの集合住宅の大家である老バーソロミューさんの少女時代だったのだ。それは、
「・・・・家を離れて孤独で、誰かと遊びたいと願っている少年トムの心と、昔をなつかしむ老女のバーソロミュー夫人の心が共鳴し合って、不思議な夢の共有体験が生じたのである。そしてそのファンタジーは二人にとってそれぞれ大きな意味ある体験となった。それは二人がそれ以後生きてゆく上での強い支えとなったのである」(同109ページ)
というのだから素晴らしい。
ファンタジーの世界では現実の時空を超えた体験を共有できるかのようだ。

話をもどそう。
つまり、トムは毎晩夢を見ていたのだが、それはなんと老バーソロミューおばさんとの共有夢だった・・・・・というか、夢の中で一緒に遊んだ。しかもバーソロミューさんの少女から娘時代まで、トムがパートナーになって人生をともにしていたのだ。こんなことが「夢」世界では可能なのが素晴らしい。

 ここで老バーソロミュー夫人と少年トムの間には、マーニーとアンナの間ような「因縁」はまったくない。また、トム自身は心に病を持つ子どもでもない。しかし、トムとバーソロミューさんは確かに夢を共有していた。それはトムもアンナと同じく既成概念の縛りが弱いので、やすやすと「たましいの世界」に参入し憩うことができたからだった。
アンナの「湿地館」もトムの「庭園」も、現実・・・・というか「こちらの世界」・・・・には存在しない「秘密」の世界だ。いずれも大人には想像もつかない・・・・すなわち干からびた感性には決して登場しない「たましい」の世界なのだろう。しかし体験した人にとっては、生命感溢れるリアリティーがあって、激しく心が揺さぶられるような精神体験なのだ。
そのお陰で二人は心が癒される。

この間の事情について、河合氏は「ファンタジーを読む 講談社+α文庫1996年」で
「・・・・このような不思議な『たましいの庭』は、誰もがもっているのだが、そこに至ることがむずかしかったり、そこにいるのに気づかなかったりする。大家であるバーソロミューさんは、どうも他の人たちからけむたがられる存在であったようだ。・・・・・しかし、現代人は日常生活で忙しく動きまわる『時間』はもっていても、たましいのことにかかわる『暇』などはないのである。そんなときに、うまくトムがやってきたのだ。」
と説明する。これは見事な解説だ。
 河合氏は臨床経験上、そうした事例に出くわしているのかもしれない。事実に裏付けられた説得力がある。
うそと真実というような、こちらの世界の貧弱な二項対立論に還元してしまえば、もはやたましいの世界への回路は閉ざされる。

私はいわゆる「オカルト」を安易に肯定するほどのロマン派ではないが、堅固で窮屈な合理的思考の束縛を解いた、柔軟で瑞々しい感性をひとつの可能性として追求したい。

ところで、興味深いことに、少女ハティの境遇はマーニーのそれに似ている。
「・・・・父母に先立たれ、貧乏で孤児のハティが冷たいおばさんに引き取られて悲しんでいるのだ。」(同189ページ)
マーニーのおばさんは冷たくはないが、心が通じない。
そしてここでもテーマは「癒し」なのだ。

「・・・・それにしても『夢見ること』はなんとたいしたことだろうと思う。・・・・バーソロミューおばあさん・・・・・が夢を見ることによって、一人の少年トムの傷ついたたましいの癒しを成し遂げたのである。この体験は、トムにとって今後の成長全体を支えるほどのものとなったのであろう。・・・・・逆のほうから見れば、トムという存在は、バーソロミューおばあさんの測りがたい孤独を癒したのである。・・・・」(同199ページ)
ということになる。
こうした「夢の共有」を、河合氏が実際に見知っているかのような口吻を感じる。これが「治癒」「回復」あるいは「蘇生」につながることに注目しているのだろう。

それでやっと私は
「・・・さりとて、この話において実在したマーニー、つまりアンナの祖母のマーニーは恵まれていなかっただろうか。しめっ地屋敷で淋しくすごしたマーニーは、日記には書いていないけど、『アンナ』というたましいの友と楽しく日々をすごさなかったと、誰が断言できるだろう。」
(<子どもとファンタジー>コレクションⅠ 子どもの本を読む83ページ」岩波現代文庫2013年 84ページ)
という指摘を、かろうじて読み解きえたのだ。

もし、本当にマーニーが癒されたのなら、それは素晴らしい。
「本当に」などと私がここで思わずことわるのは、それほどに私が「たましいの世界」からは遠い、味気ない合理の枠にいまだ囚われているからかもしれない。

ここには、「たましいの世界」というものはこの世ではないが、決して絵空事でもない、という精神分析家・河合隼雄氏の雄弁な主張があるように思う。
この指摘は、終末点が見えてきた自分を深く考え直すときに大いなるヒントになるのかもしれない。

ともあれ、作品としての「思い出のマーニー」の発想の基礎には、英国の児童文学の豊かな伝統があるようだ。