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「ローッキード事件」(1)  秘密解除された公文書

初めて「日本国憲法」というものに接したのは、田舎にいた中学2年の社会科の授業のときだったと思う。
前文を引用してみよう。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。・・・・・」

社会科の先生が前文を朗々と読み上げ、これこそ国民主権、民主主義というものだと、感にいった面持ちでその意味を解説してくれたのを思い出す。
「日本の憲法って立派なものなんだなぁ」と、私は素直に感心したものだった。

それから数年後、東京の大学にいたある夏の暑い日(1976年昭和51年)のこと。
金脈事件で辞任した田中前首相が、今度は「受託収賄罪」という罪名で逮捕されたというニュースが速報され、世間は大騒ぎになった。

何しろアメリカの旅客機の売り込みに口をきき「ピーナッツ」「ピーシーズ」とかいう隠語で5億円もの現金賄賂を受け取っていたというのだから、国民挙げての憤激でヒステリー気味の大騒動だったと記憶する。

裁判所が認定した事件のあらましは以下の通り

『1972年(昭和47年)8月、全日空に対するエアバス売り込み競争に不安を抱いた丸紅会長(肩書はすべて当時)の桧山は、専務の伊藤、大久保と相談し、政界工作として田中角栄首相に5億円の賄賂をすることを決めた。大久保はそのとき来日していたロッキード社副会長のコーチャンに賄賂の支払いを了承させた。8月23日、桧山は田中を訪ね、全日空でロッキード社のエアバス、トライスターを購入するよう運輸大臣を指揮するか、総理大臣として直接働きかけるかなどの協力を要請し、その成功見返りとして5億円を用意していることを田中に伝えた。田中は「よっしゃ、よっしゃ」とこれを快諾した。

その年10月30日、全日空がトライスター購入を決定。田中側は丸紅に5億円の提供を要請してきた。丸紅専務の伊藤が田中の秘書であった榎本に4回に分けて現金(ピーナツなどの隠語)を渡した。

この事件は確かアメリカ発の情報がきっかけだった。
私は、日本人が自力できっかけを究明したものでないところがミソだと思った。誰が言ったか知らないが、「アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひく」というたとえ話があった。
直接の関係はないものの、ニクソン大統領のウォーターゲート事件が回り回ってローッキード事件の発覚にまでつながったような気がした。政治家の不正は許さないという感情が日米で盛り上がった。それは、ずる賢いニクソンのアン・フェアな行いに対する怒りが今度は日本政界に飛び火した格好に見えたのだった。政治家という言葉はまるで「悪人」の代名詞のように語られることが多かった。それは、今も続いているように思う。

日本国憲法前文で高らかに謳い上げられた崇高な「民主主義」の精神とはおよそ似ても似つかぬ、国民などそっちのけの権力者による汚職事件。中学生の時に学んだ「人類普遍の原理」などというフレーズが、空疎に響く日本政治の惨めな現実だった。
この政治的な貧困さというか、卑しさは最近の日本の国力の低下を反映してかスケールが小さくなっただけで、あれから半世紀近い今もなお、本質的にはあまり変わっていないように見える。むしろ政治家や中央官僚の劣化がなお一層進んでいるようにすら見える。

ロッキード社の航空機導入の裏工作には、児玉誉士夫という右翼の大物がその秘密代理人として暗躍していたというニュースもあった。児玉と丸紅を通して日本の政府高官にわたった金額は総額30億円にものぼるという。更にはその児玉の自宅にセスナ機が空から突っ込むなどという物騒な事件もあった。

そのとき、テレビに一瞬映し出された児玉邸の表札の住所が「世田谷区等々力」だったことが記憶に残った。土地勘が涌いた。
この時よりもっと以前だが、物心ついた頃、私の一家も同じく等々力に住んでいたからだ。地図を開いて確かめると、徒歩でもじゅうぶんな至近距離だった。

子供の頃、近くの八幡中学校のグラウンドを借りて自転車の練習をした覚えもある。その頃児玉邸があったかどうか知らないが、我が家が住んでいた頃の昭和30年代前半、そのあたりは落ち着いた住宅街で、近くにはまだ大きなキャベツ畑が広がっていた。春になるとよく妹たちと蝶々などの昆虫採集に行ったものだ。私は九品仏小学校に通っていた。東急自由が丘駅から歩いて20分ほどだろうか、のんびりした郊外だった。
ロッキード事件は、きっと近隣にもはた迷惑な騒動だったに違いない。

その後、私自身はこの事件にそれ以上の関心もなく過ごしてきた。

大学を卒業して大阪で平凡なサラリーマンになり、いろんな機会に談たまたまロッキード事件が話題になったときなどに、田中角栄総理(当時)がアメリカの政策に楯突いたのでやられたのだとか、学歴がないのに最高権力者にのし上がったため、東京大学出身者たちから妬まれて追い落とされたのだとか、真偽の程が定かではない床屋談義を聞いたことがある。
私自身は「そんなものなのか」という程度の認識のまま今日まで来てしまったのだが、最近になって自分の生きた時代を思い出しているうちに、やはりもうちょっとまともな事実認識を持たねばと思うようになった。

そんななかで見つけた作品だが、
「岩波書店2016年刊「秘密解除 ローッキード事件」奥山俊宏著」
を読んでみた。
そして、コトはさほど単純な話ではないことを知った。

秘密解除 ロッキード事件

同著「考察」の章の272ページを引用しよう
「・・・・アメリカ発でローッキード事件が明るみに出て元首相・田中角栄が逮捕されて以降、日本国内では『田中元首相』はアメリカを怒らせたから事件に連座させられた』『田中角栄はアメリカの虎の尾を踏んだ』という仮説が根強く幅広く流布されている。それは今や定説となっているかのようだ。それ自体の虚実はさておき、少なくない日本人がそう信じているのは事実である。』

なるほど、さしずめ私などは平均的日本人のレベルに入るに違いない。

この労作は、「まえがき」によると
「・・・この本は、米国の国立公文書館や大統領図書館などで発掘した新たな文書をもとに新たな視点からこの事件を見直してゆく。・・・2009年春に取材を始めた当初、アメリカに滞在していたということもあって、米国務省の秘密解除文書や米国の裁判の記録、米国での報道や研究に集中して目を通すこと」
から始め、ワシントン米国国立公文書館、メリーランド州カレッジパークの国立公文書館、ミシガン州アンアーバーのフォード大統領図書館、ジョージア州のアトランタのカーター大統領図書館など
「・・・・文書の密林に分け入った。秘密が解除されていないものもまだあったが、最近になって秘密を解除されたものも多かった。」
と記されている。
その上でヘンリー・キッシンジャーや中曽根康弘など、存命する政治家にも直接の取材をかけた貴重な記録だと思う。

羨ましいことに、アメリカは歴史の検証に耐えられるような公文書管理の精神と技術がきちんと確立された国なのだ。たまに愚かな大統領も登場するが、やはりまだまだ日本などよりも遥かに民主主義の先進国なのではないかと率直に思えた。例えば、あの敗戦直前に日本帝国は姑息にも公文書を多数焼き払って都合の悪い事実を隠蔽したことで有名だ。
そもそも歴史の審判に対して謙虚ではない。だから、いまだにアジアでもあまり信用されていないのだろう。学生時代にアジア系留学生から、日本社会のいやらしさについてよく指摘を受けた。


ところで最近の報道によれば、日本では腐った官僚たちが政治権力者を「忖度」して公文書を勝手に書き換え、(日本国憲法によれば国権の最高機関と位置づけられている)国会でそれを追求されると、顔色一つ変えず平然と偽証するというような事態が起きている。これほど憲法の精神をないがしろにして主権者国民をバカにした話はない。

次元は違うが、民間では製品の検査データ改ざんが厳しく罪に問われるのに、公文書を改竄した官僚たちはまったく免罪。それどころか高額の退職金まで保証されているという。
考えてみると、なるほど同じ国家機関だから警察や検察も身内に「忖度」でもしてちゃんと捜査もしないのだろうかと疑いたくもなる。
いったいこの国はどこまで腐っているのだろうか。

「・・・国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」(同日本国憲法前文)

「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」(同第99条)

この精神を政治家や官僚たちが遵守しているとはとうてい思えない。だからこそ、今の憲法が耳障り目障りなので「改憲」を主張しているのだろうか。何しろ、まともに憲法を読んだ形跡の窺がわれないような連中が、けたたましく「改憲」を叫ぶ。

こんな国に税金を何十年も(天引きでせっせと)支払ってきたのかと思うと、現役を退いた今更ながら腹も立つ。
憲法の格調高い理念はまともに実現されないままここまで来てしまった。そのあげく足蹴にするような「改憲」を目論むとはなんという了見だろう。この程度の政治屋に憲法を論ずる資格はあるのだろうか。

 ところで、元首相は刑事被告人ではあっても、選挙では無類の強さを誇った。洪水のようなマスコミ報道にもかかわらず、地元民の熱くて根強い支持があったからだ。考えてみればこれはすごいことだ。逆に言うと、選挙民の判断基準はおおかたのマスコミ報道とは違う次元にあったと言わざるを得ない。最近ではむしろ「冤罪」であったという主張まで堂々と公刊されている。

こうなるとこっちもまた密林に迷い込んだような次第で、素人ではなかなか真相が見極められない。
 覚束ない足取りだが、ともかくまずは本書をしっかり読み込んでみようと思った。