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キューバ危機の真相━━核戦争は偶然回避されたに過ぎなかった。━━NHK出版「10月の悪夢」から

 核兵器禁止条約が50か国の批准を超えて、とうとう発効する。これで核兵器を違法とみなす初の国際規範が誕生する。素晴らしい快挙だと思う。
 ここにたどり着いた関係者各位のご尽力に深い敬意を捧げたいと思います。なぜなら、核兵器は人類絶滅という最悪の事態を引きおこす蓋然性が高く、これまでに核戦争が起きなかったのは、実は「偶然」か「幸運」に過ぎなかったから、と考えた方が良いことが明らかになりつつあるからだ。
 今、改めてその歴史事実を、発掘された「キューバ危機」の真相で学ぶことには意味があると思った。

 NHKが冷戦直後の92年に報道した「10月の悪夢」(NHK出版92年11月刊)にはこうある。
「・・・これまでキューバ危機は、アメリカを中心に研究が行われ、超大国による危機管理のモデルとして扱われてきた。そこではケネディは、ソ連との交渉を冷静な判断で解決した偉大な指導者だという神話がつくられた。しかし、『ホワイトハウスは混乱をきわめ、軍は核戦争の前段階の体制に至り、偶発核戦争の危機に翻弄されていた。そして、いくつかの偶然に助けられ危機は回避された。人類が破滅の淵に立った時、核は人間の制御能力を超えようとしていた』という驚くべき事実が、アメリカで最近公開された文書の読み込みによって分かってきた。冷戦終結とともに、この数年ようやく公開されてきた機密文書が危機の真実を語り始めたのである。」(p232 あとがき)
 これは本書が出版された92年当時の記述。もう30年近い。
 21世紀に入り、その核兵器保有国にはおよそこれまでの常識が通用しないような人物が政治指導者として次々と登場している。はたしてこんな人物に核兵器の発射ボタンを托して良いのか、誰しも不安を感じざるを得ないだろう。
 東西冷戦時代(~91年)の2大超核大国による支配秩序が緩み、あちこちに国際紛争の種が尽きない今、むしろ、「狂気」や「短慮」が、あってはならない大量死を招くような事態が突発する蓋然性がかつてなく高まっていると言えるのではないだろうか。

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「10月の悪夢」NHK出版

 改めてこの時のNHK取材班の見識と取材力は高く評価されてよいと思う。しかも、日本人としての痛切な歴史体験をきちんと踏まえた良心を感じた。戦後の日本人の生き方にも重要な示唆を与える視点があると思う。
「なぜ、日本人が『キューバ危機』にこだわるのか?アメリカ・旧ソ連、キューバで質問を受けた。新聞のインタビューを受けたスタッフもいた。遠いキューバの話に、当事者でもない日本人が、なぜ膨大な労力を傾けるのかという疑問があちこちで投げかけられた。
『NHKは、世界でただ一つの被爆国の報道機関です。』と答えると彼らは沈黙した。
 こうした取材の過程を経て、私たちは『人類最大の危機の教訓を描けるのは日本人だ』という確信を持つに至る。そして、番組は日本の視聴者だけを念頭に置いてはいけない、冷戦を核で支配した米ソをはじめ、世界のすべての核保有国の人々へのメッセージとしたいと思った。」(同あとがき p233)
「今、放送を終えて思うことは、核の恐ろしさを実感として伝えられるのは、ヒロシマ,ナガサキで核の惨禍を身をもって体験した日本人であり、それは人類史上ただ一度核の閃光を浴びた日本人に課せられた使命だということである。」(同 P235)
 本当にそうだと思う。
 同取材班は、アメリカ政府や軍、CIAさらには旧ソ連、キューバなどでも多数の文書を入手し、日本に持ち帰った。それは最終的に5000点、3万ページという分量に膨れ上がり、これをすべて読みこなすという、まさに気の遠くなるような労作業だったといいう。
 冷戦が終わったとき、人々が抱いた「これで世界が平和になるかもしれない」という期待は今やあっさり裏切られた。むしろ世界情勢はさらに新たな、制御しがたい混迷に嵌っている。専門家に問うまでもなく、誰が見ても政治の貧困化、政治家の劣化は著しい。従来の「安全保障」概念は根底から揺らいでいる。むしろ、政治(屋)が発するあくどいデマや扇動が、人々を分断し相争うように仕向けているようすら見える。史上最もグローバル化が進展したにもかかわらず、人類が手を取り合って進むべき道はいまだはっきりと見えない。
 「9.11同時多発テロ」に始まった今世紀前半は、かつてないグローバルな「混迷の時代」なのかもしれない。

 危機の諸相は核兵器にとどまらない。広げて言えば、地球規模で異常気象、環境破壊、コロナウイルスなどの災害が頻発、人間社会ではあらゆる格差、差別、人権侵害、紛争と内乱、それによる大量難民などが発生している。
 自分を振り返ってみても、現代社会の空しい多忙さが、かえって我々を「座敷牢」のように閉塞した日常に追い込んでいるのかもしれない。
 ひとりの力ではいかんともしがたい規模であるだけに、ハナから無力感に陥るか、あるいは何も知らぬげにつかの間の快楽に浸る人々がいる一方、こうしたグローバルな危機の打開を求めて真剣に取り組む地道な努力も続いている。
 今回の快挙は、こうした良心をつなぐ地道なネットワークが人類のシリアスな事実を明らかにしたのだと感じた。

 本書を読んで痛感するのは、核兵器の存在は一歩誤ればただちに人類の生存を脅かす最大の脅威だという冷厳な事実。キューバ危機当事者の一人、マクナマラ元国防長官は
「核は偶然に左右される人間の手で管理できるものではなかった」
と証言
している。
 あの時、目の前の強大な米軍と対峙し核戦争を覚悟していたキューバ軍の幹部は、実際問題として核兵器の惨禍を実感していなかった。
「当時、核の知識が乏しかった。転地療養に来るチェルノブイリ子供たちをの見て、初めて、放射能の恐ろしさが分かった」と証言する。
 日本でも被爆体験者がどんどん少なくなって、核兵器の惨禍とその危険性は次第に感受性と想像力の範疇に移行している。それでも、東日本大震災に続く東京電力福島第一原発の惨事が教えているのは、改めて「核技術」そのものがいかに人間のコントロールを超えた魔物たりうるか、ということだろう。問題点ははっきりしている。
 
 だからこそ、まず待ったなしの優先事項=「核兵器廃絶」にはさらに多くの関心を集める必要がある。一人一人の力は小さいかもしれないが、日本人として、自分の生活圏から社会に向かって声を上げてゆくべき時だと思う。
そして、被爆国でありながら安全保障の「現実」に縛られ、腰の重い日本政府を動かすためには、そうした「小さな声を聴く」新たな政治パワーを結集してゆくことだろうと思う。

原爆
原爆

作成者: webcitizen528

A Japanese man in Osaka

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