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ロッキード事件(12)国境の壁を越えたもの

 前回、「デモクラシーという共通の価値観を基盤に持つ法治国家のあいだでは『法の正義』を実現するためという目的観が協力関係を築くための共通概念なのだと知った。」と書いたが、「法の正義」を共有する信頼関係を、著者が米国滞在中に築いていたことが国境の壁を超える突破口になったのだと思う。

「・・・ブルーノ・A・リストウ。渉外事件に関する司法省の権威である。ということは、全米の最高権威といっていいのかもしれない。
私が在米日本大使館に勤務していた時、アメリカの外国犯罪に対する法制について疑問があり、教えてもらいに行ったところ、なんとなくうまがあって、お互いに家族ぐるみの付き合いをした人である。・・・・『思い切って電話してみるか』リストウに迷惑かけるのはいやだなあ、と思う気持ちが私の中でたたかっている。アメリカ政府が、政府高官の名を明らかにしないという方針を取っているところへ、その資料をもらう方法を教えてくれというのである。相手はその判断をする司法省の責任者の立場であり、私も、法務省における担当者という立場だから、いくら親しいからといって、気楽に聞けることではない。」(「壁を破って進め」上25-6ページ)
リストウ氏とは、当時米国司法省の民事局国際訟務部長。(同25ページ)

 この「なんとなくうまがあう」ということが、実に大事な人間関係の「ツボ」なのだと思う。それは科学ではないが、たんに情緒だけでもない。出会いの妙味だろうか。
言い換えると「気が合う」「気心がしれる」ということは、実に強い「信頼の絆」構築の原理なのだと思う。

国際電話をしてみると、リストウはいなかったが、そのリストウの下にいるマイケル・シュタイン渉外室次長からとても良いヒントを得ることができた。そのうえで堀田氏は2月18日の検察首脳会議に参加したのだった。

このくだりを読んでいて、長い現役時代の自らの狭い実体験の上でも思い当たる合点があった。
確かに、こうした「人のつながり」「信頼関係」を職場を超えて作っておくことがいつ何時大きく役に立つかわからないものだと痛感する。堀田氏の場合も、遥か太平洋の反対側に忽然と登場した大事件ながら、その距離感以上に大きな「国境の壁」をどう乗り越え捜査協力を可能にできたのかは、案外こんな地道な積み上げが事前にあったからだろう。ここは社会生活のうえで見逃してはならないポイントだと思う。

もうひとつ大事な点は、アメリカの司法制度と日本の違い。
検察首脳会議で堀田氏はこう述べている。
「アメリカの司法法制は日本と違って、国外犯をいっさい処罰できないことになっています。だから、アメリカの司法省は、アメリカ人が自国の外で犯した違法行為については、その国で処罰してもらうしかないから、その捜査に積極的に協力するのです。国外で正当な司法手続きの中で資料が公表されるということには、キッシンジャーだって反対できないはずです」(同47ページ)
これは知らなかった。
この直後、安原刑事局長から堀田氏に「密使」としてアメリカ出張命令が発令された。

「しかし、これは並の派遣ではない。検察首脳会議で自分から言い出し、これだけの期待を受けてひとりで行き、すべてだめだったら、どうすればよいのだろう。」(同53ページ) その不安はよくわかる。
出張にあたってあらかじめ同氏はリストウに確認の電話を入れた。嬉しいことにリストウは全面的に協力姿勢だった。やはり、「エンド・オブ・ジャスティス」なのだ。
相互信頼の上に「司法の正義実現」という価値観の共有がある。
「私は、これで道が開けた、と思った。」(同55ページ)
ここでほぼ国境の壁に突破口が開けた。

「リストウが個人的な好意でやってくれているとは考えられないが、彼自身の日本の検察や司法に対する信頼が、その判断の基礎になっていることは間違いないだろう。在米大使館在任中、彼と知り合い、逃亡犯罪人の引き渡し問題や、裁判所の書類の送達に関する司法共助問題などに関して、日本の司法制度を説明しながら、国境の壁を乗り越えて正義を実現する方策などを議論していたことが、思いがけず、こういう決定的な場面で生きている。」(同64ページ)
これは他の分野にもあてはまる仕事の教訓だと思う。

 異文化、異業種、場合によっては「競合・敵対関係」にあるような相手のなかにも気心が通い合うような個人的なネットワークを作る試みはとても意味があると思う。「敵ながらあっぱれ」という具合に、つながりを作っておくことは社会人として大事だと思う。自分を含む小さな狭い世界に閉じこもっていては、たいした仕事はできない。
渉外力の大切さを示唆していると思う。

 こうして渡米した国務省の一室での会議。米側は司法省、SEC (アメリカ証券取引委員会)委員長などの出席のもと、合同幹部会議で資料を提供することが決まった。
リストウは言う。
「『それは、我が国に存在する会社や人、あるいは何らかの財産などが、海外で犯された犯罪にかかわっているとしても、アメリカは、法制上これを罰することができないのであり、といって、こういった犯罪を犯した者が処罰を免れるとすれば、正義(エンド・オブ・ジャスティス)が実現されないからであります』出席者たちはうなずいた。国務省の高官も!」(同68ページ)
ただし、日本の捜査機関は秘密保持義務を負う。これを含めて米司法省と日本法務省との間で資料の取り扱いについて厳密な「協定」を結ぶことになったが、その取り決めに「日本政治の壁」が今度は立ちはだかる次第となった。

上司である安原氏の主戦場はここにあったようだ。
司法の正義を護持するためには、国内政治の介入を防がねばならなかった。
「安原局長は、いま、国内で、孤独な綱渡りをしている。
三木総理も野党も、国民もマスコミも、資料の即時公開を求めている。それを求めない自民党の多数派は、実は資料などほしくないわけで、法務省と司法省の協定づくりなど、支持するはずがない。真実を解明したい検察は、もちろん安原局長の態度を支持しているが、『それを貰うのは法務省の当然の仕事』という感じである。
そういう状況の中、安原局長の唯一の頼みの綱はアメリカで、それが態度を変えたのでは、自分がもんどり打ってひっくり返ってしまうことになる。」(同91ページ)
実にきわどい局面に安原ー堀田ラインはあった。

 ここから首相官邸での三木元総理とのやり取りも興味深い。当時の国会情勢は自民党内で少数派の三木総理が野党と同じ立場に立って、「不起訴の場合も、疑惑の政府高官の名は国会に明らかにする」という意向だった。しかし、資料を提供する側の米国から見て、そんな日本政府の政治態度では重大な「人権侵害」の発生を危惧するだろう。「推定無罪」の原則を侵しかねない。
「あれこれと議論を重ねたあげく、やはり安原局長に頑張ってもらって、三木首相を説得してもらうほかないということになった。」(同102ページ)

当時、ロッキード社が製品を売り込むにあたって賄賂を贈ったという当該国からの資料を求める声は、オランダ、西ドイツ、オーストリア、スウェーデン、ベルギー、フランス、スペイン、ギリシャ、トルコなどからにまでに及んだという。しかし、日本が一番熱心だった。日本との「協定作り」がアメリカにとっては他国との交渉のモデルになったのだというから、日本の司法当局側に立ってみれば、安原ー堀田ラインの奮闘努力の功績は確かに大きい。

もちろん、本サイトでは米側への「嘱託尋問の依頼」や日本最高裁の「起訴猶予宣明」などの是非を問うほど専門的な評価はできないことを、あらかじめ断っておきたい。