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小説「思い出のマーニー」(1)      イギリス児童文学の傑作

20年ほど前だったか、「国際日本文化研究センター」でユング派心理学者の故河合隼雄氏の講演を聞いたことがある。そのなかでこの物語が紹介されていた。それがきっけで、さっそくイギリス小説「思い出のマーニー」を読んだ。河合氏の流れるような抑揚の関西弁の快さとともに、物語りのほうも感銘深い傑作だった。

一昨年あたりにジブリでアニメ化され話題になったが、これは舞台を北海道にして日本人向けに内容が改作されていた。最近になってもういちど原作(新潮文庫)を読み返してみたが、改めてその深い味わいに感激した。アニメを鑑賞された人も多いだろうが、原作は1967年イギリスで発表された児童小説(ジョーン・G・ロビンソン)だった。

詳しくは同書を読まれたいが、ストーリーは心に問題を抱えた12歳の少女アンナが、田舎で転地療養生活をすることになった、ある夏のお話。
孤児のアンナはときどき喘息の発作もあり、痩せて虚弱そうだ。いつも「つまらなそうな」表情をしていて、養父母はじめ誰に対しても心を閉じている。

アンナ
アンナ  アニメ「思い出のマーニー」より

海辺の保養地リトル・オーヴァートンで、アンナの身に起きた不思議なファンタジーとその謎解きがとても興味深くて、思わずストーリーに引き込まれる。

多数の臨床経験を積んできた河合氏によると、この成り行きがとても見事なアンナの「治癒過程」と読めるのだという。(「<子どもとファンタジー>コレクションⅠ 子どもの本を読む」岩波現代文庫2013年)

主人公のアンナは、ロンドンで養い親のもとから学校に通っている一見おとなしい女の子だが、学校の先生によると「なにごともやってみようとしない」消極的な性格で、ふだんは自分の殻に閉じこもっていて感情表現も乏しい。だから友達もいなくて、いつもひとり孤立している。

養い親のミセス・プレンストンによると「あなたには、何か悪いところがあるわけでじゃないのよ。つまりね、ほかの子どもたちとくらべて、どっこにも、ぐあいの悪いところはないの。みんなと同じように頭もいいわ」という。アンナ自身、自分が養父母たちに心配をかけていることは百も承知のことだが、かといって、自分でもどうしたら良いのか、わからないでいるのだ。

河合氏の臨床経験によると、こうした子どもの内面には、実は深い問題が潜んでいる場合があって、中途半端な励ましや忠告で簡単に立ち直るものではないのだという。人の心は難しい。

子どもの本を読む
子どもの本を読む

読み進んでいけばわかることだが、本当のアンナはとても内面的な意識の子で、自分が周囲の人々や学校の先生、あるいは喘息を治療する医師からどう見られているのか、ちゃんとわかっている。そして外の世界と自分の内面との間に越えられない深い溝のあることを強く自覚している。

しかし誰も自分を理解してくれないという絶望感があって、それならばできるだけ「放任」しておいて欲しいと願っている。つまり、わかりもしないのに余計なお節介をして欲しくないのだ。その「防衛反応」が、顔の表情をなるべく薄いものにしているのだが、周囲の人々にはその理由がさっぱりわからない。人見知りの強い偏屈者のようにしか見えないのだろう。

リトル・オーヴァートンは海浜の田舎村なのだが、そこに住む、ミセス・プレストンの古い友人であるペグ夫妻のところにアンナを転地療養させることとなったのだった。

こうした深い孤立感を抱える少女にとっては、海鳥の鳴く、人気の無いもの静かな浜辺、潮の満ち引きで海と湿地帯が刻々と姿を変えてみせる自然が大事な治癒環境となった。
孤立感が嵩じて、浜辺で泣く海鳥の声すら「ピティー・ミー」(pity me!)と聞こえる。
アンナの心と自然が、心理的なレベルで共振するのだろう。

一方、老ペグ夫妻は孤独なアンナを心から好きになって、できるかぎりアンナの自由を尊重し、必要以上には干渉しない態度を維持した。こうした「干渉しないで寄り添う」護りかたも、効果的な治癒環境となったのだと河合氏は分析する。

同氏の指摘によると、
「・・・・人間は他人のたましいを直接には癒すことはできない。それはいくら手をさしのべてもとどかない領域である。われわれはたましいの方からこちらへ向って生じてくる自然の動きを待つしかない。しかし、そのためにはまるごとその人を好きになることと、できるかぎりの自由を許すことが必要なのである。ペグ夫妻は知ってか知らずか、それをしたのだ。・・・・・」 (「<子どもとファンタジー>コレクションⅠ 子どもの本を読む」岩波現代文庫2013年 70ページ)
ということなのだ。とても味わい深い指摘だと思う。

ここで河合氏が「たましい」というのは
「・・・・アンナのような状態を理解するためには、われわれは、人間の心と体を結び合わせ、人間を一個のトータルな存在たらしめている第三の領域━━それをたましいと呼びたいと思うが━━の存在を考えざるを得ない。」(同)
という。

私などは、どうしても心と体を切り離して客観的に分析する習性が強いので、「たましい」という概念が難解だ。
しかし、この心身統一的な、ある種「第三の領域」は、科学的思考様式が鎧のように強固な現代においてはなかなか到達できない次元だという。
客観的な分析だけではどうしても把握しがたい「たましい」の世界。あたかも曲線に接近する漸近線が永遠に交わらないように、わたしたちの合理的な認識には到達がたい分野なのかもしれない。
ところが、21世紀の今は、むしろこうした「第三の領域」への探求こそが人間にとって切実な課題と認識されつつあることもよくわかる。

最近関心の高い「臨死体験」の是非も、たぶんその議論につながるのだろう。瀕死の患者の大脳が起す「妄想」だという説も根強い。心身症のような症例が世間で話題になった頃から、それまでの合理主義に偏重した「人間観」に一種の「ゆらぎ」が生じはじめたように思う。また、たぶんそこには怪しい占いや新興宗教などの誘惑に満ちた危険な「落とし穴」もあるのだろう。

それはさておき、この「思い出のマーニー」の素晴らしいところは、孤独な閉塞感にある孤児アンナの心に立ち上がったファンタジーがたんなる夢想ではなくて、アンナを含めた三世代にわたる家系の底にある、ある種「運命」とでも言うべき心の流れに到達したことではないだろうか。
ここで、アンナは孤独な想念が嵩じて、とうとうその領域にまで踏み込んでしまった。そして、そこで起きた心象風景が見事な「治癒過程」となったのだと私には思えた。

外から医学的(=科学的)な治療が施されたのではなくて、アンナが自力で自らの内奥を探索し、組み立てたファンタジーが、彼女のアイデンティティーを芯から癒すプロセスになったのではないだろうか。
ペグ夫妻や海辺の保養地リトル・オヴァートンは、そのための得難い「場」を設定していたことになる。

こうして、まことに美しく見事な「蘇生劇」を私たち読者はたっぷりと味わうことができるのだ。
注目すべき大事なポイントは、アンナ自身のたましいにこそ、治癒力が潜んでいたということだと私は思う。
この「自力更生」は素晴らしい。それは即、生きる力=生命力ということではないだろうか。