二人の先生

岐阜市内の県立高校3年の時、S先生には「政治・経済」を教えて頂いたはずなのだが、本当に申し訳ないことに授業の内容はほとんど、否、あらかた忘れてしまった。
そもそも「政治・経済」の教科自体、当時の私にはあまり関心の湧く科目ではなかったからだろう。

北高2
母校の校舎

ところが、授業中に脱線したときのS先生の雑談は今も印象深く覚えている。
もう40年以上も前なので、個々の詳細には若干錯誤が含まれているかもしれないが・・・・。

ひとつは、先生の奥様が亡くなったときの思い出話。
どういう経過からこの話に入られたのかは、もう覚えていない。

先生は、病で奥様に先立たれたのだった。
自宅から奥様が救急車で運ばれるとき、車内に同乗された先生に、奥様が「それではお先に失礼します」といって寝入ったのが、夫婦の間で交わした最後の言葉だった、というようなエピソードを紹介されたと思う。
こんなに象徴的な言葉が最後だったのだから、きっと仲睦まじいご夫婦だったのだろうと思った。
自慢話のような嫌味はまったくなかった。むしろ不思議な「運命」の妙味を感じた。まだ17歳くらいの若い私には、とても印象深いエピソードとして心に残った。

もう一つの思い出。
どういう経過でそうなったのか忘れたけど、授業中に先生も交えて教室で激しい議論が起きて、ある同級生が「それでは、先生の思想はなんですか」というような、挑戦的な詰問をしたときの反応。
先生は少し激していらしたけれど、正々堂々と「私は仏教、特に大乗仏教の竜樹の中観論を学んでいます。」とお応えになったことがあった。
あのころは学園紛争の影響もあって、ときに教師をつるし上げるような生意気な生徒もいたものだった。
そのとき、私は初めて「竜樹」とか「中観」とかという言葉を知った。

そして三つめも、正確な言葉は忘れたが、何かの拍子に我々高校生に向かって大要以下のような趣旨の話をされたと思う。
それは、
「大勢の赴くところに付和雷同するのは危険。信念を持った少数派たれ。」
もうちょっと平たく言えば「世の中の空気に流されるな」
というほどの趣旨だった。

確かな記憶ではないので、多少自分に都合よく脚色して覚えているかもしれないとは思うが、あのときの先生のお話の趣意からは、そんなに大きくはずれてはいないだろうとも思う。
そして、自分がどう受け止めて心に残したかのほうが、今となっては大切なのだと思う。

北高1
出身高校

ただ、高校を卒業してから、先生の教えをずっと守ってきた、などということでは全くない。
正直に告白すれば、これまでその日暮らしの毎日で、ほとんど忘れていたのが本当のところだ。

我ながら不肖の教え子に過ぎないが、今思い出してみて、改めて大事なことを教えて頂いたものだと思うようになった。

当時、S先生が哲学を専攻されていたとは、ついぞ知らなかった。
かなり専門的な仏教哲学書を著されていたことも、あとになって知った。

黒板に向かって書くときのチョークの使い方が、いかにも筆書き風だったので、きっと書をよくする先生なのではないだろうか、などと想像したりしていた。

先生は白髪で、たしかちょび髭だったのではないだろうか。
当時すでに初老の域に達した年配で、学者然たる雰囲気があった。普段、背広を着していたが、靴は白い運動クツだった。
たぶん校内が上履き使用だっただろう。その運動クツでスタスタ廊下を歩きながら、すれ違う生徒をじっと見守る先生の表情には、生徒に対する慈愛を感じた。

わずか1年。それも「政治・経済」だから授業数も少なかっただろうし、先生と直接話をしたという記憶もない。私はS先生にとっても、ほとんど印象のない生徒だったに違いない。
しかし、その慈顔は今も脳裏に残っている。

不思議なことだが、学校の先生なのに、教科内容よりも、授業から脱線したときの小話や、生徒との議論で垣間見た先生の研究テーマや、生徒をじっと凝視する姿のほうが心に残っている。

案外、そんなものかもしれない。
勉強もまともにしなかったから言い訳がましいが、学校で教えられた内容よりも、先生の人格に触れた思い出のほうが強く心に残ったのだ。
思い出すと感謝の念が沸く。

そういえば、東京の大学時代の比較思想史のM教授の情熱的な講義も強い印象に残っている。

大講堂の黒板に向かいながら、熱い講義の合間に、先生がふと我に返るように述懐されたこぼれ話。

それは、ご自分の同世代の人々が戦争でたくさん亡くなった話だった。それこそが今、自分の学問の後押しをしているのだ、というような話だった。短い述懐だったが、はっとした。
申し訳ないが、講義の内容は忘れたが、これは心に残った。

外語1
私の出身大学。今はもう調布に移転している。

外国語専門大学なのに、語学が嫌いで、逃げ道としてそのM先生のゼミに入れてもらって、やっと卒業した。

ゼミではなんとヘーゲルの「小論理学」がテキストだった。これをドイツ語で読むゼミ生がいたが、私は勿論、さっぱりわからなかった。

冬の寒い日、確か東京はあたり一面雪だった。
その早朝、締切ギリギリで提出した、余りに稚拙な卒論だったのに「自分で考えたのだから」と「優」を下さった。ヘーゲル哲学はまったく反映していなかった。

考えてみると、偶然だが両氏とも哲学の先生だった。

大学を卒業して、私はほとんど学問とは縁のない「形而下」の仕事と雑用ばかりに明け暮れ、とうとう還暦を超えてしまったが、なぜか今もお二人の先生の生前の姿をふと思い出す。

講義内容などまったく思い出せない。

そして、恥ずかしながら、今頃になって、懐かしさとほのかな「感謝」の念が湧くのだ。

外語2
かつての大学正門右側

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