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អង្គរវត្ត,アンコール王朝の興亡(2) 水利システムと巨大都域

さらに引用を続けてみよう。

 「古代クメール王朝の発展は、ひとことで言えば『水』の管理の消長により方向づけられていたと考えてよい。そして「水」を貯えることはこの地域に住む人々にとって昔から生活の基本であった。同時に、あまりにも短期間に過剰に降る雨水をどのように排水し、乾季にそなえてどのように貯水していくかに取り組んできたのは、アンコール時代の人々であった。結論からいえば、クメール人はこうした河川の流水および雨水を自由に調節する大事業に成功し、それがアンコール文明の発展を支えてきたといえる。

 アンコール朝の諸王は常に神聖で壮大な王都を造営し、その中心に大寺院を建立することを最優先課題と考えていたようである。結局のところ都域の造営は王による神仏へ加護を願い王権の永続性を目的としていた。
 しかし、この都域の造営にともなう地域の整備事業は、近隣の開発を招き、農業生産の増加を生み出したのである。換言すればこれら宗教儀式を執り行う寺院の建設は、その地域の守護的役割を果たすという精神面と同時に地域開発の側面を伴っていた。」(同177ページ)

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 「トンレサップ湖(アンコールワットから南西にあって車で30分くらいの距離。雨期には日本の琵琶湖の17倍近くにもなるという大湖 筆者注)東岸のアンコール地方は、湖水を介して国内各地と通じていた。湖の漁業資源にも恵まれていた。5世紀ごろからアンコール地方に人々が住みはじめ・・・・・この地域の北側には、プノン・クレーン丘陵(海抜400メーター超 筆者注)がひときわ高く頭を一つ出した感じで見えている。その丘陵からはいくつもの中小河川が湖に向かって流れており、恒常的に水を確保することができた。
 この地方がアンコール王朝の首都となったのは9世紀からであるが、この地が農業適地であるために選ばれたわけではなかった。国内各地に通じていたし、各地に征討に出かけるには便利な場所に位置していた。また、遠くに神々の住むヒマヤラの霊峰に見立てられたプノン・クレーン丘陵も見えていた。
なぜ水を貯えるかというと、長期の乾季に備えて耕地に安心して水を供給し、二毛作を可能にすると同時に生活用水の確保も重要であった。」(同180-1ページ)

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トンレサップ湖

 「(この地域は 筆者注)地下2メートルほどのところに水を通さない粘土層があり、保水性が抜群であるので、水の消失は自然蒸発だけであった。・・・・アンコール平野は東京都区内ぐらいの広さであるが、プノン・クレーン丘陵裾野より北北東から南南西に向かってなだらかに傾斜している。大小の河川もこれと同じ方向に沿って流れている。・・・・人間の眼では確認できないほどの大変になだらかな傾斜地が広がっていることになる。・・・・そして最終的には、当時機能していた大小のバライ(人口の貯水池 筆者注)を含め灌漑の面積は7万ヘクタールに及んでいたと推定される。
 天気に影響されなくなって当時の農業生産高がどれだけ伸びたかわからないが、おそらく二毛作が可能となったし、その裏作に野菜や他の穀物を植えていたにちがいない。この集約的農業は経済的余剰を生み出し、これを背景にした王朝の発展がとてつもなく壮大な寺院の建設を可能にしたのであった。(同182-3ページ)」

 こうして9世紀から約600百年あまりにわたって続いたアンコール王朝は、最盛期にはインドシナ半島の中央部のほとんどを領土としていた。その間アンコール・ワットは12世紀前半に王朝が建立した寺院であり、このアンコール遺跡群のある地域はほぼ東京都区内と同じ面積だという。トンレ・サップ湖の存在も大きい。豊富な漁業資源があると同時に、鉄道もバスもなかった時代に、湖上の水運が重要な物流機能を果たしたのだろう。
 後に述べるが、この湖上生活者は現在でも40万人ともいわれる。では、アンコール都市の規模はいかほどであったのだろうか。

「アンコール・ワット級の大きさの寺院(パンテアイ・チュマール遺跡)の建設に際してどれくらいの数の人夫が働いていたのであろうか。カンボジアで現場監督をしていたフランス人専門家の試算であるが、作業員は16歳から45歳ぐらいまでの男性で、雨季・乾季の条件を考えて一日七時間の労働と仮定して、石工約三千人、彫工約千五百人、建築仕上げ工約四千人、石材運搬人約一万五千人、それに補助作業員などを加えて合計で約二万五千人が総掛かりで三十四年間かかったとの推算である。人夫たちの食事・日用品を運ぶために、毎日約一万台の牛車が駆り出されていたという。これだけの人口が常時働くためには背景人口が十五万~二十万ほど必要であるという(『フランス極東学院紀要』による)。それゆえにアンコール王朝周辺には最盛期で約六十万人の人々が居住していたという数字は、説得力がある。」(同85ページ)
推定人口の妥当性は別としても、人類史にもまれな、壮大な事業が連続していたことがわかる。

そこにはこの事業を支えた偉大な「精神」があったのではないだろうか。
そういえば、エジプトのピラミッドもかつて私たちがこどものころは「奴隷労働」の産物だなどと否定的に教えられたことがあった。しかし、最近の研究では、こうした見方はまったく「偏見」であって、学問的にも覆されたと聞いている。ピラミッド建設を支えた、もっと積極的な精神や意味があったらしい。
 農業生産力の向上、交易の拡大とともに、人々の自由闊達な精神の発露が文明の発達を促したに違いない。「収容所列島」のような政治経済体制に偉大な文化は生まれない。心が萎縮してしまうからだ。
 同じことはこのアンコール朝にも言えるかもしれない。人々の横溢した生命力、心の躍動感がなければ、これだけの威容は達成できないに違いない。それは踊る女神たちの壁面レリーフを見ても明らかであるように思えた。圧制による労働強制などでは、こんなにのびやかな表現ができるとは思えない。文化として、ひとつの頂点を極めていたことだろう。

 「アンコール朝は、確かに多くの建造物を建立し続けたという建寺王朝的傾向を持つが、その中でもアンコール・ワットには往時の時代精神が見事に具現されている。第一にヒンドウー教のヴィシュヌ神信仰が完全な形で具現化されている事例がアンコール・ワットであり、祭政一致的政治を具体的に壮大な建築物で例示している。第二に当時インドとの往来や文化交流が活発であったことを証明している。第三に宇宙観を背景とした大寺院構想と建築技術がまさしく合致し、頂点に達していたといえる。こうした時代精神を実現したのがアンコール・ワットであったといえる。」(同99-100ページ)
 読んでいて今更ながら、自分がいかに狭い世界観で生きてきたことか、と。

おそらくアンコール遺跡群研究の第一人者ともいうべき石澤良昭氏が、初めてここを訪れた時の感動を以下のように綴られている。非常に共感した。
 「 (1960年筆者注)シエムリアップには四日間ほど滞在しました。その時に見たのが、夕日に染まり、空似向かってそびえ立つアンコール・ワットの中央祠堂の威容です。背筋がぞくぞくしました。熱帯の大樹林と、人間の構築物である石造寺院がこんなにぴったり溶け込むものなのか。六十五メートルある中央祠堂の前に立つと、魂が吸い込まれそうな気分がしました。私にとってアンコール・ワットとの出会いは、今までに経験したことのない大衝撃となったのです。」(連合出版2018年刊 石澤良昭著『アンコール・ワットと私』21-2ページ)
 いろいろ渉猟して出会った書だが、久しぶりに読書の楽しみを頂戴した作品だった。これ以降の困難に満ちた同遺跡群発掘・修復そして研究の道は、ぜひ同書を参照されたい。
 「遺跡を巡りながら、私はふと立ち止まって自問するときがあります。『自分は何に衝き動かされて歩いてきたのだろう』と。この遺跡に出会って以来、五十余年、それはひとことで言えるものではありません。圧倒的な石造大伽藍の迫力、長大な壁面の浮彫り絵図、壁龕(壁をえぐって造られた凹状の部分 筆者注)から笑みを投げかけてくれる女神たち、柱や身舎(柱に囲まれた家屋中心部 筆者注)の装飾など尽きせぬ魅力があります。たぐいまれなこれら宗教芸術作品がもたらす感動や知的好奇心の刺激は、言葉には言い表せないものです。」(同書150ページ)

作成者: webcitizen528

A Japanese man in Osaka

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