カテゴリー
読書

「遠野物語」から(4)・・・・魂の物語

柳田民俗学の源

明治41年(1908年11月)、34歳の栁田に遠野の民間伝承を初めて語ったのは、当時22、3歳の早稲田大学に学ぶ若い文学青年で、遠野出身の佐々木喜善(号は「鏡石」)。

語り部の佐々木を紹介したのは、柳田と交流のあった水野葉舟という、当時25、6歳の流行作家だった。佐々木は遠野の民話を驚くほどたくさん記憶していた。
栁田はこの秋から何回か佐々木に会い、熱心にその口述を筆記した。しかし佐々木は遠野なまりがきついうえに強い吃音で、とても聞き取りにくい語り口だったらしい。

「鏡石君(佐々木喜善の号)は話上手《はなしじょうず》にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減《かげん》せず感じたるままを書きたり」
とある。

toono images

さて、佐々木にとって「遠野物語」第99話の主人公・福二は祖母の兄である北川清の弟。つまり、大伯父にあたる。
福二は遠野の土淵村から岩手県沿岸部の「田の濱」にあった「長根家」へ婿養子に入っていた。

柳田の関心はたんなる怪奇趣味に留まらなかった。
のちに「常民」と呼ぶようになる、無名の人々の精神生活に、強く心惹かれたのだった。文明開化とともに合理的な思考法が人々の意識を占めてゆけば、こうした伝説や民話譚の類がやがて駆逐されてゆくのではないか、との危惧を持ったのだろう。
この柳田の慧眼が、のちの日本民俗学へと発展したようだ。

水野葉舟の怪談話

ところで、柳田とともにこの話を聞いた水野葉舟は、99話の福二の体験を「遠野物語」初稿発表(1910年)の前年に、別の媒体に発表していた。この頃の文壇では「怪奇もの」が流行だったという。
読み比べてみよう。

水野葉舟 「怪談会・上」
(明治42年8月号 日本勧業銀行月報第54号)

「明治29年の、三陸の海嘯の時だった。
私の叔父が海岸の方にいたが、三人の子供と細君とでいたが、その海嘯にさらわれた。
叔父は漸くの事で、一人の子を連れて、逃げて水から出ていた木につかまっていた。そのうちに水が全く引いて見ると、自分の体は鎮守の森の樹の頂につかまっていた。
それから漸々降りて、命は助かったが、細君と二人の子供は遂にさらわれてしまった。
暫くして騒が治まった頃だった。海岸に小屋がけをして暮らしているうちに、ある晩、便所に行った。

田舎の便所は母屋から離れて外にあるので、家を出ていくと、その晩は非常に月が澄んだ晩だった。
すると向こうの方から女がスタスタ歩いてくる。近づいてくるのを見るとそれは死んだ細君だった。

それで、お前は今何処に居ると聞くと、女はにやにや笑って私は今、あっちに(来た方をさして)ある男と夫婦になっています、と言って夫にかまわずにどんどん山の方に行きだした。(その男と細君とは昔の恋仲だった。それは叔父も知っていた。)

で、叔父も後からついて行った。少し行くと、女は一人の男と一所に歩いている。それからどんどん山の方に行くのに随いて行ったが、峠へ道が曲がる処で姿を見失った。

叔父は朝まで路傍の石に腰を掛けて悲しんでいた。
朝になって通りがかりの人がそれを見付けて連れて帰った。叔父はそれから永い事病みついた。」

田の濱

(1909年発表、横山茂雄編『遠野物語の周辺』2001年)

Exif_JPEG_PICTURE
登山姿の水野葉舟

細かい部分に差異があるものの、同じ素材を扱ったことは明らか。
ここで「私」とは佐々木喜善のことだろう。
一見してわかるように、水野は佐々木の話をひとつの「怪談話」として紹介したようだ。

福二の亡妻の描写でも、水野は
「女はにやにや笑って」

というように、やや下卑た描き方をしているのに対して
「遠野物語」では

「振り返りてにこと笑いたり」
としている。

これは簡潔で余韻の深い筆致で、女性らしい愛らしさをさえ湛えている。さすがに青年時代に抒情詩をよくした、栁田ならではの筆致というべきだろう。

同じ話でも、表現の仕方次第で、こんなに大きな印象の違いが出る。

一方で、信二の被災の有様についての記述は水野の方が詳しい。

「叔父は漸くの事で、一人の子を連れて、逃げて水から出ていた木につかまっていた。そのうちに水が全く引いて見ると、自分の体は鎮守の森の樹の頂につかまっていた。」
明治三陸大海嘯《おおつなみ》の惨状が具体的にイメージできる。

また、悲歎にくれた信二を

「朝になって通りがかりの人がそれを見付けて連れて帰った」
という具体的な様子などは「遠野物語」にはない。想像するに、これは、栁田が敢えて削ったのではないだろうか。

つまり、栁田の意図はどこまでも信二と亡妻との魂の交感を抒情的に描くことに焦点を絞ったのではないかと思える。

更に興味深いことには、信二の話を紹介した佐々木喜善その人が、この話を20年後に自分で書き残していることだ。

1930年発表  佐々木喜善  「縁女綺聞」より

「『遠野物語』にも其の大筋は載ってゐるが、極く私の近い親類の人で、浜辺に行って居る人があった。
明治29年かの旧暦五年節句の晩の三陸海岸の大海嘯の時、妻子を失って、残った子女を相手に淋しい暮らしをして居た。

五月に大津波があって其の七月の新盆の夜のこと、何しろ思ひでのまだ生新しい墓場(然しこの女房の屍は遂に見付からなかったので、仮葬式をしたのであった)からの帰りに、渚際を一人とぼとぼと歩いて来ると、向こふから人が此方へ歩いて来る陰が朧月の薄光りで見える。

併かも其れはだんだんと男女の二人連れであると云ふことが分かった。それが向こふからも来る、こっちも行く・・・・・で遂にお互いに体も摺れ々々に交わった時、見るとそれは津波で死んだ筈の自分の女房と、兼ねてから女房と噂のあった浜の男であった。

其の人の驚いたことは申すまでもなく、併し唖然として二三歩行き過ぎたが、気を取り直して、振り返り、おいお前はたきの(女房の名前)ぢゃないかと声をかけると、女房は一寸立ち止まって後を振り向き、じっと夫の顔を見詰めたが、其のまゝ何も云はずに俯向いた。

其の人はとみに悲しくなって、何たら事だ。俺も子供等もお前が津波で死んだものとばかり思って、斯うして盆のお祭りをして居るのだのに、そして今は其の男と一緒に居るのかと問ふと、女房はまた微かに俯首いて見せたと思ふと、二三間前に歩いて居る男の方へ小走りに歩いて追ひつき、さうしてまた肩を並べて、向こふへとぼとぼと歩いて行った。

其人も余りのことに、それらを呼び止めることさえ出来ず、たゞ茫然と自失して二人の姿を見送って居るうちに、二人はだんだんと遠ざかり、遂には渚を廻って小山の蔭の夜霧の中に見えなくなってしまった。
それを見てから家に還って病みついたが、なかなかの大患であった。」

佐々木はすでに公表されている「遠野物語」を念頭に書いている。しかし、さきの2作品と比べて、やや不可解とも思われる差異も読み取れる。

まず、時節について、水野の場合は「暫くして騒が治まった頃」の「ある夜」としている。佐々木の場合は旧暦5月の大海嘯(大津波)のあった年の新盆としている。これに対して栁田は1年後、つまり翌年の盆の季節に物語を設定している。
いずれも月明かりのなかでの邂逅だ。

栁田や水野の記述では、夜中に小屋から離れた便所に行くときの渚際という場面設定。ところが佐々木の記述では、新盆の墓参りの帰り道(渚際であることは同じ)としているのだ。栁田と水野に話をした、当の佐々木その人の作品であるのに、この違いは何によるのだろう。

また佐々木の記事によって、信二の亡妻の実名が「たきの」であることが判明した。

「遠野物語」では、はっきりと「もと彼」とあの世で夫婦になっていると告白した「たきの」が、佐々木の記述ではほとんど無言だ。信二が「たきの」の名前を呼んで訝るのに対して「また微かに俯首いて見せた」だけである。
更に、「遠野物語」ではこの世に残した子供への悲しい思いを「女は少しく顔の色を変えて泣きたり」としているに対して、佐々木の描写では「微かに俯首いて見せた」だけで、「たきの」はまったく言葉がない。水野の作品では子供を巡るやりとりはない。

それから、ひとつ大きな疑問が脳裡に湧く。
「遠野物語」を前提にしているから敢えて佐々木は強調しなかったのかもしれないが、子細に読むと「たきの」が本当に死んだかどうかはわからない。
亡骸が発見されなかったのは、三話に共通だ。
たぶん死んでいるはずだが遺体はないからこそ、信二の未練も切れていない。生きていたとすれば、津波騒ぎのどさくさに紛れて「もと彼」のもとに走ったことになってしまう。

20年後の作品だから、佐々木が改めてその間に内容を再確認したり補足した可能性は充分ある。
記録によれば、柳田自身も「遠野物語」を発表(明治42年6月)する前年に初めて遠野を実際に訪れて、土淵村の助役である信二の兄・北川清に会っているので、当初聞いた佐々木の証言内容を確認した可能性はある。99話自体は初稿以後の改訂でも、ほとんど変更はないらしい。

せっかく再会できた亡妻に存外にも拒まれたあとの福二の行動について、「遠野物語」では
「追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中《みちなか》に立ちて考え、朝になりて帰りたり。」
となっていて、まず「たきの」は死んだものとされ、福二は道中で朝まで佇み思案して(家に)帰った。

水野の作品では「叔父は朝まで路傍の石に腰を掛けて悲しんでいた。朝になって通りがかりの人がそれを見付けて連れて帰った。」
となっている。ここではひたすら悲嘆に暮れている。通りがかりの人が連れてくれたので、やっと家に帰れたほどだ。

佐々木の記述では、亡霊の二人を茫然自失で見送ったあと「それを見てから家に還って病みついた」となっていて、信二が朝までその場にとどまったとは読み取れない。

その後、福二が大きな病を得て長らく患ったという結末は、三話ともに共通である。

これらの差異はとても興味深いが、もはや関係者がいない今日、真偽のほどはこれ以上に詳らかにはならないだろう。

公平に見て、「遠野物語」がやはり、いちばん印象深く心に残る。
柳田が佐々木の「語り」になぜ注目し、それをどう表現しかた、三話をこのように比較相対してみると、その創作意図がほの見えて来るように思う。

ところで、主人公の信二も昭和初期までは存命であったらしい。まさか自分が「遠野物語」に実名で登場していると知っていたのだろうか。プライバシー権利にうるさい今日では考えられない。

繰り返される「遠野物語」

実は信二の4代あとの子孫が、このたびの東日本大震災で再び大津波に被災し、実母(信二の孫にあたる)を失ったことから、先祖と同じように繰り返される運命の不思議さとともに、この「遠野物語」の99話が話題になった。
また、現地では今回の津波のあともやはり、死者と遭遇したという話が他にも多かったらしい。

三話の比較を念頭に置いて、改めて吟味してみよう。

「遠野物語」を敢えて自筆、自費出版の限定初稿本として発表したとき、この99話の副題を敢て「魂の行方」に分類したことを考慮すると、そこに栁田國男の意図を解くヒントがあると考えるべきだろう。

culture_101025_03

この点では、「角川選書 「遠野物語」入門 鶴見太郎著」の説明が一つの参考になる。
「・・・ただし、ここでひとつ考えておかなくてはならないうことは、『原型に近い状態』という時、その『原型』とはいったい何なのか、ということである。言うまでもなく、一定のストーリーをひとから人へ口伝えしていく場合、元の形がそのまま伝えられる、ということはまず、ありえない。少なくとも活字媒体という近代の利器によって多くの読者に読んでもらうことを想定すると、『原型』とは絶えず動いているものと考えてこれに見切りをつけ、なおかつ民間伝承の持つ意味を弁えて再構成するという道を選ばざるを得なくなる・・・・」

つまり、「遠野物語」もまた、まずは『原・遠野物語』ともいうべき民潭があって、それは佐々木喜善という民間伝承を語る青年によってひとつの『改編』がほどこされていて、これを聞いた栁田の手によって更に推敲が加えられたと推測できる。

もちろん99話それ自体は遠野に伝わる「民間伝承」ではなくて、佐々木自身の身近な縁者の話ではあるが、やはり同じ手法を柳田が試みたことになるのであろう。

だとすれば、この99話は、佐々木の話を「原型」にした栁田國男その人の「文学的」な作品というべきなのかもしれない。しかし栁田は敢えて「信二」という名前を公表して「事実性」を強調している。根拠のない作り話ではないということだろう。

専門家の間では、この99話は「死者との魂の和解、鎮魂」だとする解釈が多い。
あえて福二がこれを家族のだれかに語り、それが姉の孫・佐々木喜善にまで伝わったのは、亡妻の魂との遭遇を経て「魂の和解、鎮魂」を信二が果たしたからだという。そのことによって、福二自身が妻の死という過酷な「喪失」を受け入れることができたからではないか、と推測しているのだ。
そのためには「その後久しく煩《わずら》」う時間も必要であったのだと。

そういう文脈で改めてこの物語を味わうことによって、私たちは合理的な思考だけでは掬いきれない「魂の真実」に眼を開かれるのだろう。

しかし、正直に言って、私の受けた印象では、「和解」や「鎮魂」という言葉では綺麗事に過ぎるように思う。こう言っては非難がましくなるだろうか。
この物語りには、やはり不条理な運命への「恨みがましさ」が残るのではないだろうか。

悲観的かもしれないが、ここには「和解」にもなりえない「愛別離苦」の苦悩がむしろ描かれているのではないだろうか。
そう簡単に福二の喪失感が癒されたとは思えない。

悲劇は終わっていない。それは佐々木の綴った言葉では「大患」にも匹敵するような苦悩なのだ。
別離への未練が私達の魂にもじわりと響いてくる。それゆえに一読して心に刻まれるのだ。

柳田は、その痛みが誰の魂にも響きわるような表現に達し得た。
これこそ「遠野物語」が「魂」を描いた文学たりうる秘訣だろう。

かくして私たちにできることと言えば、福二とともに心痛み、誰しも免れ得ない過酷な運命を噛みしめることではないだろうか。それはまさに心患うような悲しみなのだ。

この悲しみを避けずに生きるためには、相当な魂の強靭さが必要だと思い知らされる。
つまるところ、生き残った者としていかにして魂を鍛えるかという課題に行き当たるのだろうが、これはまた別の大きなテーマになるので、ここまでにしておこう。

それにしても、きらりと耀く宝石のような「魂の悲劇」を、よくぞ後世に残してくれたものだと感謝したい。

栁田國男写真

※2018年夏のある日、私は時間を見つけて実際に遠野を訪れてみた。
現地で知ったのだが佐々木喜善の実家が残っているということだった。予告もなしに訪問してみたところ、お孫さんに当たるというご婦人が在宅で、短いご挨拶ができた。