カテゴリー
読書 映画

The Third Man(4) 「第三の男」  Anton Karas&Zither

ハリー・ライムのテーマソング・・・・この魂に沁み入るようなチターの音色はどのような経過で世に出たのだろうか。

古い映画なので、ストーリーの詳細を知らない人は多いかもしれないが、テーマソングを聴いたことのない人は少ないだろう。JR恵比寿駅構内でも、しゃれたBGMとして定着している。

じっと聴いていると切なく悲しい音律だが、同時に気品と格調がある。切れ味も良い。映画では、登場人物たちの悲劇性を嫌が上にも高めている。
いちど聴いたら忘れられない。何回聴いても飽きない。
人によっては、思わず身が震えるほど感動するという。

曲調を聴いているだけで、映画の様々なシーンが連想されるから不思議だ。それはまさに当のアントン・カラス自身が、映像を見ながらもがき苦しんで搾り出すように作曲したからだった。

(ただし、素人の勝手な感想として言わせてもらうと、最後の締め方が何か少しあっけないようにも思えるのだが・・・・)

130627017952116209236
チター

 

ハリー・ライムのテーマソングについて、その登場の背景を詳細に解説した良書があった。
チター奏者のアントン・カラスの真実を後世に残そうとした良心が読み取れる。しかも日本人のチター専門家であることが嬉しい。それは
「激動のウイーン 『第三の男』誕生秘話 チター奏者アントン・カラスの生涯 内藤敏子」 2001 マッターホルン出版」

http://ecx.images-amazon.com/images/I/41VhE-0dABL._SX311_BO1,204,203,200_.jpg
「第三の男」誕生秘話

この作品を読んで、改めてこの映画の奥行きの深さに感じ入った。
何よりもキャロル・リード監督夫妻とアントン・カラスの出会い、友情、そして情熱が空前の大成功を導いた原動力だったとよくわかった。

著者御自身が日本チター協会の創設者である。

ホームページにチターの説明文があったので、一部引用させていただく

「・・・・この、美しい心をもった、チターという楽器は、古い昔、一本の弦のシュイットハルト(Schithalt)という楽器が変化したといわれています。・・・・様々な人々によって少しずつ改良が加えられ、現存する最古のチターは1675年と記されたもので、南チロルのブリックセン地方(Brixen)で製作されたものです。 ・・・・・
18世紀の末になってその外形に変化が出はじめ、ドイツの楽器作りで有名な町ミッテンワルド(Mittenwald)で私達が今日使用している洋梨型のチターが作られました。・・・・・

・・・・1830年前後からたくさんのすばらしいチター演奏家が生まれ・・・・・19世紀末にはヨーロッパ各地にチター協会が生まれ現在は世界各地にまで及んでいます。

チター音楽は非常に幅広く、チェンバロに似た響きもあるところから、ルネッサンス音楽をはじめ古典曲にもよく使われ・・・・・日本チター協会が世界に名乗りを上げたのが1982年8月7日でした。世界の各チター協会との文化交流に常に務めながら活動をしています。 ・・・・」

カラス自身とチターの出会いは第一次大戦の頃、8歳のときだった。兄妹たちと遊んでいた屋根裏部屋で、偶然古びたチターを発見した。
これが、カラスの生涯にとって最初の「運命の出会い」だった。

そうして、もうひとつの運命的な出会いが「ホイリゲ」でのキャロル・リードだった。
このとき、お互いに43歳の同年だった。

キャロル・リードはこの作品に相応しい音楽を捜していた。
そして、たまたま「ホイリゲ」と呼ばれるウイーンの伝統的な酒場でチター奏者アントン・カラスを「発見」したのだった。
このホイリゲ(heurige)とは、オーストリア東部に見られるワイン酒場のことらしい。料理は簡単な家庭料理が中心で、ワインは主に白ワイン。肉の燻製、ピクルス、黒パン、ゆで卵、生のトマトなどが料理として出される。ホイリゲは社交場としての機能も有している。1789年(フランス革命の年)、当時の神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世(改革者として有名)がウィーンの農家に自家製ワインの販売許可をしたらしいが、これがまた「ホイリゲ」の始まりになったという。

48年当時、アントン・カラスもまた伝統の「ホイリゲ」でチター奏者として細々と家族を養っていたのだった。
もしキャロル・リードに見出されなければ、ウイーンの森周辺の優秀なチター奏者ということだけでその生涯を終えたのかもしれない。

この出会いについて「激動のウイーン 『第三の男』誕生秘話 チター奏者アントン・カラスの生涯」で著者・内藤敏子氏はカラスの長女・ウイルヘルミネ・チューディックの証言を、以下のように記している。
それは1948年10月だった。

「・・・・・すべてが偶然でした。父はちょうど家でくつろいでました。父は『これといった用事もないから、行ってもいいよ』と電話口で答えていました。この時間に家にいるなんて滅多にないことでした。本当に偶然と申しますか、運命だったんでしょうね。ここでキャロルリードと夫人にはじめて出逢ったのです。」
そのホイリゲにはウイーン音楽を聴きたいという客たちがいた。はじめカラスはイギリスの観光客だろうかと思ったらしい。
「・・・その晩、キャロル・リードは父の演奏を聴いているうちに『この音楽だ!』と稲妻のごとく心の中でひらめいたそうです。キャロル・リードはこの音色と父の演奏に心を奪われ、まわりの人たちとはひと言も話さず、ひたすら父が演奏するチターに聴き入ったそうです。・・・」(98-100ページ)

アントン・カラス

 

このとき、カラスは6年の兵役を終えてウイーンの家族のもとに帰ってきていたのだった。
「・・・父は軍隊に小型のチターを持って行き、演奏していました。将校たちはたびたびパーティーを開いては、父に演奏するように言ってきたそうです。多くの人たちに喜ばれたことを話してくれました。将校たちはいつでも父を招き、チター演奏に聴き入っていたそうです。また、仲間のためにもよく弾いたと話してくれました。」(93ページ)

敗戦後まだ3年。廃墟と化したウイーンの人々の生活は困難を極めた。当時の日本人の境遇に似ている。
映画「第三の男」に登場する闇商人の一人、クルツ男爵も酒場のお客相手にバイオリン演奏をして、やっと糊口をしのぐような落剥振りだった。古都ウイーンの人々の置かれた窮乏を象徴している。

無名のアントン・カラスもまたそうした境遇の一人だった。チターがカラスとその一家の命を繋いでいたのだ。

「・・・・いつでもどこでも待ってくれる人がいて、父はチターを最高の宝物だと言っていました。チターのために生まれてきた人のように私には見えました。」(96ページ)

「・・・父は収入を得るために、しばしば夜なかまでホイリゲで演奏をしていました。朝方帰宅してすぐに疲れた体で闇市に出かけ、食料を求めに行きました。私たちも何ひとつ物がありませんでしたが、父のおかげで食料だけは確保出来ました。・・・・・それは悲惨で非常に貧しい生活でした」(同103-104ページ)

 

キャロル・リード
キャロル・リード監督

現地ウイーンでのロケを終わったキャロル・リードはこのフィルムに相応しいメロディーを捜し求めていた。キャロル・リードの映画に賭ける熱意がなければ、こうした「偶然」も起きなかったと言えるだろう。

こうして、カラスはキャロル・リードからのたっての依頼を受けて、生まれて初めてロンドンに向った。49年2月のことだった。それから約半年の間に、言葉も文化も違う異国の地で、数々の悪戦苦等の末にあのハリー・ライム・テーマが生まれたのだった。

カラスは優秀なチター奏者だったが、映画音楽の創作などまったく未経験だった。もともと不器用で生真面目な性格のカラスにとっては、神経の磨り減るような作業だった。このため最初の2ヶ月はまったく進まず、おおいに難渋したという。

リード夫人はドイツ語に堪能だったが、キャロル自身はドイツ語を解せず、カラスもまた英語がまったくわからなかった。しかしリード夫人はじめ関係者は、アントン・カラスがなんとか仕事ができるように温かく心遣いしたエピソードが綴られている。
面白いことに最初の有名な四小節だけは、映画とは関係なくロンドンに来る以前から、もともとカラスが日頃口ずさんでいた自作メロディーだったのだという。これは意外だった。

「・・・・父は昔から、このテーマを口ずさんでおりました。そう、最初の四小節だけです。私たちもよく耳にしました。口ぐせのようにふっと出るメロディーを何らかの形で知ったのかもしれません。リードには映画を一刻も早く完成させねばならないとう焦りがあったと思いますから、このメロディーにも興味を持ち、ひとつの案としてこの続きが生まれることを望んだものと思います・・・・」(114ページ)

この四小節が突破口になった。
しかし、キャロル・リード監督のイメージとカラスの作曲が融合して新たな創造をするための苦闘は6ヶ月も続いたという。やっと完成したと思った途端にスタジオが予期せぬ火事になり、すべてはじめからやり直すなどというアクシデントもあった。

The therid man title
The therid man’s title

そして9月のプレミア試写会。
「・・・・映画が終わりに近づいてくると、会場のお客たちがざわめきはじめました。父は非常に心配し不安になったそうです。・・・・しかし、そうではなくて、お客さんたちが感動のあまり立ち上がり、ささやき出したということがわかったとき、自分自身も非常に興奮したと話してくれました。涙がこみ上げ何がなんだかわからないうちに拍手が湧き起こったそうです。・・・・」(128ページ)

映画完成の感動が手に取るように思い浮かぶ。
翌日、カラスはやっと解放されて早くもウイーンに帰国した。よほどロンドンでの生活が過酷だったのだろう。

彼はウイーンの森のホイリゲでチターを弾きながら、家族との平和な生活を営むことを何より望んでいた。しかし、あっという間に世界的な名声が飛び込んで来て、思わぬ人生の大変化が起きてしまった。

カラスの演奏を聴くオーソン・ウエルズ
カラスの演奏を聴くオーソン・ウエルズ

毀誉褒貶は世の常とはいえ、素朴なカラスとその一家にとっては思わぬ展開とともに耐え難い世間の荒波が待っていたようだ。

私は、更にカラスの生涯を知りたくなった。