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ロッキード事件(14)法の裁き

 「壁に向かって進め」(講談社1999年5月刊)を読んでみて、日本の法務・検察サイドが元首相の逮捕・起訴そして有罪確定への道を拓いたことは、やはり「空前の金字塔」というべきだろうと感じた。それまでの検察行政への不信感を晴らす目的を果たしたのだろうと思う。それほど民意を意識していた可能性もある。検察の名誉挽回がかかっていたのかもしれない。

  76年2月、海の向こうの米国での事件発覚からわずか半年後の7月末には元首相のスピード逮捕にまでこぎつけた。そのあいだのアメリカとの司法共助において、著者が本書の章分けタイトル名としたように、 「国境の壁」「政治の壁」「時の壁」「手続きの壁」「人の壁」という具合に、それこそめまいを覚えるような厚く高い壁があった。よくぞここまで短期間で乗り越えられたものだと思った。誰が見ても不可能と思われそうなことを可能にしてみせたのだ。

 ただし、捜査の全体を指揮する立場であった故吉永祐介主任検事が 「ないものねだり」 と記者に語ったという「児玉ルート」(軍用機汚職)の解明は、ほとんど未解決に終わったこともまた留保されるべきだろう。それは本書のカバーする範囲の外にある。
そして、こちらのほうはむしろ戦後日米関係の深い闇・・・・保守政治体制の根底部に潜む「裏事情」が露見されることを避けるためなのか、米側から4月に提供された「資料」にはきれいに削除されていたのではないだろうか。むしろ、これ見よがしに「Tanaka」の名前の載るはコーチャン・メモだけは添付されてあった。
  ただし、故吉永氏は諦めてはいなかったのだろう。表に出た資料以外に、ひっそりと関係資料を残しNHKの元記者に託していた。
 そして、「時効の壁」に追い詰められていた捜査のほうは、このときから「丸紅・全日空⇔田中ルート」捜査へと絞り込んで突き進んだ。
堀田氏が悪戦苦闘した「司法共助」も、失礼ながら突き放して言ってしまえば、そのシナリオの中での「偉業」なのだと思う。もちろんそれでも、私のような並の人間にできる任務ではない。
 その剣難の峰を踏破できた根源の力は検察官としての使命観、優れた能力であったことは間違いないが、同時に権力者の不正を許さないという、この当時の「世論」の大きなうねりがあったからでもあるだろうと思う。そして、その照準は当初から田中角栄元首相に向いていたことも事実だろう。米側資料も、なぜかその方向にぴったり照準が合わされていたと言える。ここに、より大きな「意図」が潜んでいたかもしれないという疑いはますますつのる。

本書のストーリーのなかで、肝心のところでいつも登場して苦闘する主人公を励まし、重要な情報を提供する架空の女性「ゆふ」・・・・ 「あとがきで」著者は 、実はアメリカの友人や日本の記者であったと明かしている・・・・との会話。田中元首相がはじめからターゲットであったことについて以下の通り記されている。
「(コーチャンが証言した、賄賂の行き先である日本政府の高官を)『そう。あれは田中さんだって、みんな思っているわ。立花隆さんだってずいぶん早くからそう書いているし、マスコミだって一般市民の人たちだって、たくさんの人が田中さんを疑っていてるんじゃない?』・・・・
『だけど、政治家もほかの人たちも、田中さんは本当につかまるのだろうかと思っているわ。田中金脈事件でも、みごとに逃れているし、なにしろ日本でいちばん力のある人ですもの。今度だって、田中さんの手下の政治家が一人か二人つかまれば上出来で、大山鳴動でミッキーちゃんが一匹かなと思っているのよ』」(同上232ページ)
と「ゆふ」に言わせている。このセリフは、この頃のマスコミや一般世論の気分をよく言い当てていると感心した。
 当時、卒業を控えた普通の大学生であった私自身も友人との 他愛のない 床屋談義レベルで、「政府高官」はたぶん田中元首相のことなのだのだろうが、それでもまさか逮捕までは いかないだろうなどと似た話をしていたように思う。それは「刷り込み」を真に受けていただけだったのだろうか。
つまり、詳細はわからないものの、「ロッキード事件」と田中元首相の「金脈事件」はいわば「セット・メニュー」という「印象」が前提にあったと思う。それくらい「金権政治」の蔓延を皆が憤っていたのだった。

だから、今頃になって「何百億というカネを政界工作に使っていた田中元首相が、たかだか『五億円』程度の『はした金』を外国からもらうわけなはい」などと、勝手な憶測を垂れ流すことは間違いではないだろうか。つましい生活をしている庶民の金銭感覚からしてあまりに不遜だと思う。そういう感覚を平然と公にする政治感覚こそが汚職の温床になっている。

この「ゆふ」という謎の人物との初対面の会話の中で、著者はこの事件で田中元首相を追い詰め断罪することが、必然的にその「政治生命」を断つことになる自らの「役割」について以下のように記している。
「『私も、その問いについては、田中さんの名が取り沙汰されはじめてからずっと考えてみました』私は、正直に言った。」(同「上」167ページ)
そしてその次の一節は堀田氏の重要な証言だと思う。

「実はその人の名は絶対に言えないのであるが、検察の上層部にいるある現職の幹部が、私と二人きりになった時に、『なぁ堀田君、われわれは、総理大臣をやったような人をやってはいけないんだよな』と言ったのである。この言葉はショックであった。本当にそう思っているなら、その人は捜査に影響を及ぼすことができる立場を離れるべきだと思ったが、考えてみれば検事も役人である、そんなことはできないだろう。それから私はもう一度考えてみたが、やはりその人の意見に同意することはできないという結論を出し、自分の心を再確認した。」(同168ページ)
そして「ゆふ」に言う。
『私は、どんなにすぐれた政治的、社会的な功績を持つ人であっても、もしその人が国民のための権力をその人個人のために使って私財をこやしたとしたら、その人は法によって裁かれなければならないと考えています。たとえそのお金を政治のために使ったとしても、いったん私のものとした上で支払ったのであれば、それはやはり権力を私のために利用したことになりますから、許されないと思います』
私は、ゆっくりと話した。」
「『権力は国民から預かったものだから、あくまでも国民のために使う。私のためには使わない。これは、国民のための政治や行政を進めるために絶対に必要なルールです。』」
そしてこのあとに続く検察官としての堀田氏の見解は本書の重要な部分だと思う
「『このルールを破った人は、どんなに功績があり、どんなに必要な人であっても、その罪を国民の前で精査してもらう必要があります。そうでないと、国民は、政治を信用しなくなるでしょう。そこのところを、検察の判断で人によってゆるめたりすれば、それは検察の手で政治の基本を動かすことになり、国民に対するとんでもない背信になると思います』」(同168-9ページ)
 この直後で著者は「ゆふ」に対してやや自嘲気味に「『なんだか青臭い理想論をながながとやった気がしますが』」と書いているのだが、実はこの部分が、堀田氏が本書を著したもうひとつのモチーフなのではないだろうかと思った。
何も問題意識を持たず眼の前にある「仕事」にただひたすら没頭しただけではないのだと思う。
「しかし、なんとしても、私はこの事件をものにしたかった。こういう事件を解明したくて、検事になったのである。
安原刑事局長も、思いは同じであろう。」(同「上」10ページ)
検察官の本能が働いていた。

なんのための「戦い」なのか、また「生命のあかし」なのか。検察官も人だから、最終的には「人の生き方」に帰着するのだろう。

 それは、国民から負託を受けているはずの政治家や高級官僚に対する有権者の厳しい視線を意識したモラルというべきだろう。民主主義の法治国家である以上、不断に問われ続けるべきだ。

これは、21世紀の現代日本で、いっそう差し迫った倫理規範として銘記されねばならないのだと思う。

 「モリ・カケ」騒動など、残念ながら社会の指導者層の自浄作用が衰弱すると同時に、国力までも見事に衰退してきているのだと思う。

作成者: webcitizen528

A Japanese man in Osaka

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